ボクシング最強クラスのヘビー級チャンピオンへの挑戦。

失敗すると「土台不可能だった」と嘲笑されるのが必定、しかし成功の暁には日本スポーツ史上最大の偉業と賞賛される…。

ただし、これまで誰一人として成功どころか、挑戦が現実味を帯びる段階までも登ることが出来ていません。

「誰だってヘビー級が一番注目されて一番儲かるってわかってる。ただ、ヘビー級は飛び抜けて最強。日本人が命を削るような減量をしてフライ級やバンタム級で戦っているのは、フライ級やバンタム級が一番好きだからじゃないんだ。仕方がないんだよ』(不二拳・岡本不二会長)

常識的に考えて「100%不可能」。

だからこそ、それを身にしみて思い知らされているボクサーは手を伸ばさずに、相撲力士やプロレスラー、キックボクサーら〝常識〟を知らない馬鹿たちが100%不可能の無謀な挑戦を繰り返してきたのかもしれません。

1955年、不二拳の岡本不二会長が「ヘビー級ボクサー養成プロジェクト」を立ち上げ、ヘビー級ボクサーの候補生として相撲やプロレスの若手を引き抜いた野望は「世界ヘビー級チャンピオン」どころか、在日米軍のど素人軍団にも半殺しにされる悪夢を見せつけられて木っ端微塵に打ち砕かれてしまいます。

「世界ヘビー級なんて100%不可能。こんなことしてたらいつか殺される」。恐怖に怯えたプロジェクトの選手たちは全員が夜逃げ同然で宿舎から消えていなくなりました。

岡本に残ったのは巨額の借金だけ。ジムがあった田園調布の土地を売り払い新丸子への移転を余儀なくされ、電話まで差し押さえられたと伝えられています。


しかし、1960年に文字どおり巨大な希望が不二拳の門を叩きます。

身長2m、体重90㎏の20歳の若者は前年まではプロ野球選手、風呂場で転倒して負った怪我のために現役を断念していました。

「相撲とプロレスから誘われているけど、自分はボクシングをやりたい」。

その若者、馬場正平の言葉を聞いたフェザー級ボクサー酒井源治はすぐに岡本に伝えます。

しかし、ヘビー級に夢を賭けたばかりに莫大な借金を背負った岡本は「何を今更。日本人にヘビー級なんて無理なんだよ」と悲しい顔をするばかりだったそうです。

馬場は1ヶ月ほどトレーニングすると不二拳を去り、力道山を訪ねました。

その力道山もまた「ボクシングのヘビー級チャンピオン」に夢を賭けた「常識を知らない馬鹿」の一人でした。1961年にリキジムを創設すると、渋谷を睥睨する巨大パビリオンのようなリキ・スポーツ・パレスを建設し、外国人によるボクシングヘビー級のエキシビションマッチを開催しました。
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しかし、力道山は1963年12月に赤坂のニューラテンクォーターで暴力団員との揉め事から刺殺され「世界ヘビー級の夢」はまたしても、あっけなく散ってしまいました。

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力道山の大宮殿跡には、ヒューマックス渋谷ビルが建っています。

そして、1971年に〝昭和の春秋園事件〟が起きます。舞台は大相撲ではなく、プロレス。

アントニオ猪木が日本プロレスの不明瞭な経理に一部幹部の退陣を要求、受け入れられない場合は、選手一同が退団すると画策、これを上田馬之助が「日本プロレスを乗っ取ろうとしている」と上層部に密告、猪木は除名処分されてしまうのです。

行き場を失った猪木は信頼を寄せていた数少ない幹部、リキ・エンタープライズ副社長でリキ・ジム会長の吉村義雄に「ボクサーになって世界王者に挑戦したい」と頼み込みます。

しかし、後援者とテレビ朝日が猪木を新日本プロレスの旗揚げに担ぎ出し、ボクシングヘビー級の「夢」の船は出航すら出来ませんでした。

その後も、髙田延彦らに連なる「プロレスラーのボクシング転向」は間歇的に話題を呼ぶものの、何かが具体的に始まることは、ついに一度もありませんでした。