1932年の春秋園事件を発端に、日本で初めて顕在化したヘビー級の夢に再び火がつくのは1955年、昭和30年のことでした。

不二拳の岡本不二が「ヘビー級ボクサー養成プロジェクト」を立ち上げ、ヘビー級ボクサーの候補生として相撲やプロレスの若手を引き抜いたのです。

ピストン堀口の育ての親として知られる岡本ですが「ヘビー級の大物を育ててアメリカに乗り込みたい」というのが最終目標でした。

岡本は、ピーク時には20人近くの「あしたのヘビー級チャンピオン」たちをジムに寝泊まりさせ、衣食住の面倒を見る、まさに相撲部屋スタイルで夢を追いかけましたが、朝のロードワークにジムでの練習を重ねると元力士や元プロレスラーの肉体からたちまち脂肪が落ち、ミドル級まで体重が落ちてしまいました。

ミドル級以上の体重をキープできたのは村下巌、片岡昇、中越豊の元力士3人だけ。

「プロジェクト」からわずか1年後の1956年9月17日後楽園ローラースケートアリーナで「村下vs片岡」の日本人同士による史上初のヘビー級公認試合が行われました。

計量では村下が190ポンド3/4(86.5㎏)、片岡は178ポンド3/4(81㎏)。

この試合に勝利した片岡は1957年5月7日に中越との日本ヘビー級タイトルマッチに出場、この試合も判定をものにして初代日本ヘビー級王者に就きます。
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ボクシング黄金時代にヘビー級の夢を追いかける。

当時はさぞかし盛り上がったのではないかと想像してしまいますが、不二拳のヘビー級ボクサーを指導したエディ・タウンゼントが「ノーグッドだったね。お客さんが試合見て笑ってたって、後から聞いたよ」と現実は冷めていました。

村下を下した片岡が翌月に米軍のアマチュア選手チャーリー・ティムスを迎えますが、まさかの1ラウンド22秒KO負け。ティムスはこの試合がデビュー戦にして引退試合という、生涯キャリアはこの1戦だけでした。

そんな〝実像〟を目の当たりにしているファンが、ヘビー級の夢を見限るのは当然です。

片岡に防衛戦の相手が見つからなかったため、1958年1月に王座が保留となり、日本ランキングは消滅してしまいます。

しかし、ヘビー級消滅の理由は「層の薄さ」ではありませんでした。在日米軍の慰問試合に招かれた不二拳のヘビー級選手が試合で負った脳内出血で死亡するというリング禍が起きてしまうのです。

「米軍のボクサーは怪物、日本人には勝てっこない。そんな奴らでもアメリカでは全く通用しない」。

片岡らは恐怖に慄き、全員がジムを逃げ出してしまったのです。