1980年代の世界バンタム級のタイトルはWBAが短命王者がベルトを奪い合う戦国時代、WBCではミゲール〝ハッピー〟ロラとラウル〝ヒバロ〟ペレスが安定政権を築きますが、後世まで評価の高い王者になることは出来ませんでした。

タレントが限定される第3団体IBFでは1984年4月に新垣諭がエルガー・マラガーノと初代王座をかけて争い8ラウンドTKOで戴冠。

新垣はインターハイで玉熊幸人(のちのWBA世界フライ級王者レパード玉熊)を下した俊才でしたが、照準を合わせていたWBAジュニアフライ級は渡嘉敷勝男とルペ・マデラの王座たらい回しをJBCも黙認する不運。

さらに、所属したのがIBFの拠点となる奈良池田ジムという背景も、沖縄の才能の行く手を狭めてしまっていました。

そうです、ジュニアフライ級を主戦場としていた新垣は3階級も上のバンタム級にアタックしたのでした。

マラガーノは年齢不詳、戦績も不詳の謎のフィリピン人でしたが、のちに4連敗中の3勝7敗であることが判明。マラガーノはこの連敗記録を9まで伸ばして引退しています。

新垣には一片の罪もありませんが、プロボクシングの世界は今と同じく腐敗を極めていました。

しかし、どんなに怪しげな団体であろうが、本物のファイターがリングに上がる可能性はいつだってあります。

21歳の新垣が2度目の防衛戦に選んだのは、1歳年下で全く無名のオージー。戦績こそ6戦全勝6KO無敗でしたが、すべての試合を自国で戦い、当然強豪との手合わせはありませんでした。

しかし、勇躍、敵地シドニーに乗り込んだ新垣は9ラウンドでストップされ、タイトルを手放してしまいます。

ちなみに二人のジャッジが挑戦者にフルマークを与えたのに対して、日本人ジャッジは8ラウンドまでを80-80のドローとスコア。シドニーに奈良判定を持ち込んだ、失笑ものの採点でした。

9ラウンドにわたって拳を交えた新垣は〝マリックビルの殺戮者〟が次元の違うファイターであることに気づいていたはずですが、陣営は再戦を選んでしまいます。
51lzWx6EE2L._SX322_BO1204203200_

黎明期にもかかわらず、IBFバンタム級は2代目にジェフ・フェネック、4代目にオルランド・カニザレスという、リング誌年間PFP(Best Fighter Poll)の常連にして殿堂入りの118パウンダーを擁する幸運に恵まれたのです。

ビッグネームの存在するフェザー級からジュニアライト級に進出し、あまたの名勝負を残し、100万ドルファイターになったフェネック。

カニザレスは米国では関心の低いバンタム級の王座とはいえ、現在も記録に残る16連続防衛を果たし、メキシコのリカルド・ロペスと並んで「最も過小評価されたボクサー」と呼ばれました。

カニザレスの絶妙のポジショニング、ステップワークは、メディアやマニアには十分評価されていましたが、軽量級ゆえの悲哀、注目度と報酬面で過小評価されたということでした。


カニザレスが、同年代に日本で高額報酬を得ていた辰吉丈一郎や薬師寺保栄と戦っていたら…?

辰吉に屠られたサムエル・デュランに手を焼いたカニザレスは、辰吉の攻撃に怯みあっさり沈められたかもしれません。

あるいは、注目度も報酬も低い苛立ちを、裕福な日本人ファイターに向けて、怒りの拳をぶつけたかもしれません。