After all, eventually, uncrowned kings cannot become the champion.

結局至極、無冠の帝王は王座に辿り着けない。


「無冠の帝王」という言葉には「王者も対戦を避ける実力者」というだけでなく「王者になれない星の下に生まれたボクサー」という運命論の文脈も読み取れます。

どっちにしても、無冠の帝王が漂わせるのは哀愁であり、その背中に吹き付けるのは不運の風です。

その意味でも、マーベラス・マービン・ハグラーは間違いなく無冠の帝王でした。

世界一強いミドル級だが、世界チャンピオンにはなれない。

さらに、ハグラーから感じる理由の分からない暗さからは、世界王者になっても「ミドル級の呪い」の影がちらつきました。

全くの杞憂でしたが。
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今日は初七日です。

注目度の高い人気階級だけに、ミドル級にはさまざまなジンクス、呪いがかけられてきました。

軽いジンクスには「五輪ミドル級金メダリストは、プロではミドル級王者になれない」。

五輪ミドル級金メダリストというと、ヘビー級のフロイド・パターソンやライトヘビー&ヘビーのマイケル・スピンクスらプロでも成功したグレートが思い浮かびますが、確かにプロでミドル級王者になったミドル級金メダリストは113年間、一人もいませんでした。


このジンクスを打ち砕いたのが誰か?

日本のボクシングファンなら、誰も答えに詰まることがない問題です、はい。  

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さすが週刊ボクシングニューズ誌、亡くなられて四日目で特集号です。


そして、重たい、不幸な「ミドル級の呪い」のエピソードは「.ジンクス」とは比較にならないほどに、有名です。

このクラスは初代王者が〝ノンパレル(天下無双)〟ジャック・デンプシー。

今では、20年代を席巻した同姓同名のヘビー級王者の方が有名ですが、ヘビー級デンプシーの本名は、ウィリアム・ハリソン・デンプシー。19世紀のミドル級王者にあやかって、ジャック・デンプシーを名乗ったのです。

それほど、〝初代〟デンプシーは強烈な印象を残していたということでしょう。

その天下無双のデンプシーから、脈々と名王者の系譜が紡がれてきましたが、なぜか非業の死を遂げる王者が多いことから「ミドル級は呪われている」と言い伝えられるようになりました。

最初の悲劇は、20世紀初頭の世界王者、スタンリー・ケッチェル。

ミシガン州グランドラピッズ(ショルダーロールを完成させたメイウェザー王国)でポーランド移民の貧農の両親から生まれた気性の荒い少年は、わずか14歳で家出。

酒場の用心棒を生業とし、その腕っ節の強さが認められて、17歳でプロボクシングのリングに立つことになります。1908年、世界ミドル級王者に就いた頃には「ミシガンの暗殺者」の凶暴なファイトは全米に轟いていました。

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リング誌の創刊者、ナット・フライシャーが「史上最強のミドル」と推したケッチェルの生涯戦績は51勝48KO4敗4分という驚異的なものでした。ミドル級で負けたのはビリー・パプケに敗れた1敗だけ。ヘビー級王者ジャック・ジョンソンとの八百長の一戦はあまりにも有名です。

1910年10月15日、ケッチェルはジョンソンとのリターンマッチに備えてミズーリ州コンウェイの牧場でトレーニングに励んでいました。

ある朝、農夫ウォルター・A・ディプリーがケッチェルの部屋に怒鳴り込みます。ディプリーは「俺の女に手を出したな!」と、38口径リボルバーを、現役の世界ミドル級王者の胸に撃ち込みます。さらにもう一発。

リング上では無類の強さを発揮したケッチェルですが、あっけなく倒れそのまま起き上がることはありませんでした。

絵に描いたようなプロボクサーの生き様を24年間で突っ走ったケッチェルが「呪い」の最初のページとなります。

 

そして、そのケッチェル最大のライバル、〝イリノイのサンダーボルト〟ビリー・パプケに次の呪いがかけられます。

ケッチェルから王座を奪いケッチェルとの再戦で、凄惨なまでに打ちのめされたパプケは、心身ともに健康を損ない1936年11月26日、夫婦喧嘩の末に夫人を射殺した後、その銃で自殺を遂げてしまうのです。

 

そして、〝ピッツバーグの人間風車〟ハリー・グレブも、呪いのジョーカーを引いてしまいます。グレブといえば1922年5月23日マジソンスクエアガーデンで、米国ライトヘビー級タイトルマッチを、のちに世界ヘビー級王者となるジーン・タニーと争い、圧勝を収めるのです。

タニーが負けたのは生涯この一敗だけですから、グレブのこの勝利の価値の大きさは計り知れません。

一方のタニーにとっては、グレブさえいなければ、伝説中の伝説になれるところ、エデル・ジョフレとファイティング・原田の関係にもオーバーラップします。

タニーとは1924、1925年にも拳を交え1勝2敗と星を逆転されますが、この敗れた2試合の時点でグレブの視力は極端に悪化しており、右目は失明していたと言われています。

1925年に運転する乗用車で大事故を起こして重傷を負った原因も、両目の視力にあったことは明らかです。

そして1926年10月、医師の勧めで眼の手術を受けることになりますが、手術は失敗、あろうことか生命まで落としてしまいます。

ほとんど見えない目で勇敢に戦うグレブの心意気を誰よりも理解していたのは、当然の事ながらタニーでした。「小さい体で目も見えないというのに。本当に強い男とはグレブのことだ」。葬儀の日、遺族に嘆願して、人目を憚らず号泣しながら棺を担だのは、タニーでした。


 

グレブが最後に戦ったのは1926年8月19日。

世界ミドル級王座を奪われたタイガー・フラワーズに挑んだ一戦でした。結果は、黒人初のミドル級王者フラワーズの判定勝ち。

そのわずか2ヶ月後にグレブの悲報を聞いたフラワーズは、ライバルの突然の死を嘆き、自分にしか見えない黒い蚊や黒いハエがどんどん大きくなって飛び回ることが、深刻な眼疾であることも覚悟していました。

1年後の1927年11月、フラワーズも手術台に向かいました。「嫌な予感しかしない」。呪いの死神は、美しい32歳の若者も飲み込んでしまいました。


 

「ミドル級の呪い」は終わりません。
リングの内外でフランスを盛り上げたスーパースター、マルセル・セルダン。

1948年9月21日、名作映画「傷だらけの栄光」のモデル、ロッキー・グラジアノから世界ミドル級王座を奪還した〝鋼鉄の男〟トニー・ゼールと激闘を繰り広げ、12ラウンドTKO勝ち。

敵地米国に乗り込んでの大激戦に、フランス全国民がラジオ中継に一喜一憂したと伝えられています。

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フランス最大のスポーツヒーローとなったセルダンですが、リング外でも豪華絢爛、国民的スター、シャンソンの女王エディット・ピアフと大恋愛に落ちるのです。

「どうしていつも悲しい歌ばかり歌うんだい?」と聞くセルダンに「どうしていつも人を殴ってばかりいるの?」と返したピアフ。さすがフランス、お洒落な愛の交歓です。

フランスのヒーローは1949年6月16日、ジェイク・ラモッタにタイトルを明け渡してしまいますが、タイトル奪還を目指して10月27日、またも敵地米国へ向かいます。

豪華客船のチケットも用意していたと言われていますが、ニューヨーク公演中のピアフから「1秒でも早く会いたい」と電報が届きキャンセル、飛行機に乗り込みました。

ドイツの大女優マレーネ・ディートリヒとピアフが、ニューヨークのラガーディア空港でセルダンを出迎えるとあってメディアもファンも色めきだっていましたが、セルダンを乗せた飛行機は定刻を過ぎても姿を見せません。

新聞のトップニュースは「ポルトガル沖で飛行機が墜落・大破、乗客48人は絶望」というものでした。

セルダンは、まだ33歳。たった1年でフランス最大のヒーローになり、あっという間に姿を消してしまったスーパースターに、強烈な郷愁を禁じえないのはフランス人だけではないでしょう。

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あまりにも有名なピアフの「愛の讃歌」。


ボクシングファンでなくとも、あの歌はセルダンを歌ったように聞こえてきます。
 
 
*******一気に書こうと思いましたが、こんな雨なのに襲撃者現るで、中座。