The Day It All Went Wrong. 〜全てが悪い方へ転がった日〜。
++++++++++++
若いボクシングファンは、ナジーム・ハメドのことをリングサイドでときどき見かける太ったおじさんだとしか思ってないかもしれない。
20年以上前、ハメド(またの名をプリンス)は強烈なKOパンチと大言壮語、そしてサーカスまがいの入場でボクシング界に電撃を走らせていた。
1992年、18歳のハメドは生まれ育ったシェフィールドからプロ転向。
奇妙なスタイルのサウスポーは、全盛期にはあらゆるPFPリストに名前を刻み、フェザー級最強と目されていた。
1995年にWBOのピースを強奪、IBFのベルトもコレクションした。
イエメン王朝の支援を受けるハメドはボクサーには珍しくリング外の収入が多く、フォーブス誌のアスリート長者番付100にも入った。
そして1997年11月、米国デビュー戦ではなんとマジソン・スクエア・ガーデンのアリーナが用意された。
当時、ボクシング界最大のパワーハウスだったHBOはハメドの大広告をタイムズスクエアに掲げ、ニューヨーク中のバス停留所にもハメドのポスターを貼ってケビン・ケリーとの一戦を煽った。
試合前には、なんとマイケル・ジャクソンがハメドのトレーニングを表敬訪問、テレビや新聞・雑誌にも大きく取り上げられ、絶大なパプリシティー効果をあげた。
5フィート3インチ、無名のフェザー級ボクサーがニューヨークでヒーローになるなんて、ありえないことだった。
しかし、大きなスポンサー(イエメン王家)をバックに持つハメドにHBOは莫大な先行投資を行った。そして、ハメドは期待通りに「エキセントリックなアラブのボクサー」を演じて、HBOの期待に応えて見せた。
試合当日、MSGの150の席が取り外された。200フィートのランウェイが設営され、ハメドが入場するとド派手なストロボが点滅し、紙吹雪が舞った。
試合もド派手な倒し合いで4ラウンドKO勝利を収める。
その後の3年間もハメドは無敗街道を驀進。戦績は35戦全勝31KOに伸びていた。
そして、運命の2001年4月7日。ネバダ州ラスベガス、MGMグランドガーデンアリーナ。
対戦相手はオッズこそ3-1でハメド有利だったが、自他共にキャリア最強と認めるマルコ・アントニオ・バレラ。
バレラは「トリッキーなボクシングは私には通用しない。それはハメドが一番よくわかっているだろう」と挑発し続け、ハメドも「ラスベガスのリングにバレラを沈める」と応酬。
しかし、あの日のハメドは何かが違った。
その年の1月、私はハメドに会いにシェフィールドに飛んだ。そこで3時間に及ぶインタビューを行った。
それまでのハメドのイメージは多くの人と同様に親しみやすくて、傲慢で、自信家で、派手好きなプリンスだった。
しかし、そこで彼は別の一面を曝け出した。
I created 〝The Prince〟.
「プリンスなんて作られた仮面さ」。
「試合が決まるとスカイスポーツが入場やトラッシュトークのアイデアをいくつか提案、私も意見を出しながらパフォーマンスを決めていた」。
「どうやったら1人でも多くの人が見てくれるか、1枚でも多くのチケットが売れるか。記者会見でのパフォーマンスや入場のショウを考え抜いた。もちろん、面白い試合を見せるのが大前提だ」。
「でも、試合を煽って焚きつける必要が無いのなら、私はあんなことをする性格じゃない」。
そんなことは誰でもわかっていた。あれが〝素〟なら精神異常者だ。
ハメドが非常に頭の切れるセルフプロデューサーであることなんて、誰もが知っていた。
私が驚いたのは、それをハメド自身の口から聞いたことだ。フロイド・メイウェザーなら死ぬまで守銭奴の役を演じ切るだろう。
モハメド・アリがやり遂げたように。
しかし、ハメドはメイウェザーでなかった。ましてや、アリであるはずもなかった。
試合当日の午後、ハメドはMGMグランドホテル29階のスイートルームで「またの名はカシアス・クレイ」のビデオを繰り返し見ていた。
そう、ハメドはわかっていたのだ。
ビデオを見ながらときどき、水を口に含んだ。
その水はメッカの地下水だった。メッカの地下泉から湧く水は、神のご加護がある聖水だと信じられている。
この大勝負が決まってから、ハメドは練習中もこの聖水を少しずつ飲んでいた。
午後2時30分。ハメドはスイートルームを出た。私も一緒だった。10分後には彼の家族や友人らが合流した。
ラスベガスには珍しいことに、朝から小雨が降り続いていた。イスラムにとって雨は神の恵み、砂漠の街に降る雨は僥倖に違いなかった。
そして、キャリア最大の入場パフォーマンスが幕を開ける。
その年の秋、世界同時テロが起き、ムスリムへの偏見は増大した。
一旦は内定していたバレラとの再戦はキャンセル。
イスラム色の強烈なパフォーマンスと傲慢な言動のハメドを、狭量な米国が受け入れる器などなかった。
ハメドは1年後に、地元英国ロンドンで空位のIBOフェザー級王座を懸けて、復帰戦のリングに上がる。
相手は34歳のスペイン人、マヌエル・カルボ。33勝14KO4敗と戦績はまずますながら、前戦で7年前にハメドに粉砕されたスティーブ・ロビンソンに2−0でやっと勝ちを拾った凡庸なボクサーだ。
ハメドは無難に勝ったが…かつてのプリンスではなかった。
カルボは120−110/119−109*2の〝準完封負け〟を喫したにもかかわらず「バレラの試合を見たからハメドは全く怖くなかった」と言い放った。
カルボレベルのボクサーでも、ハメドがかつて羽織っていた魔法のガウンを剥ぎ取ることができたのだ。
これ以上、リングに上がることは危険だった。
しかし、ガウンを剥ぎ取られたハメドには世界中から対戦オファーが舞い込んだ。
あれほどの栄光をつかんだボクサーが簡単にグローブを吊るすわけがない。
しかし、驚いたことに、ハメドはきっぱりとリングを去った。
引退後のハメドは…2005年5月、150㎞近いスピードを出して対向車と衝突、対向車の運転手に瀕死の重傷を負わせてしまい、禁固1年3か月の実刑判決を言い渡されてしまう。
そして、最近も時速160㎞のスピード違反で逮捕されてしまった。
ハメドは、病的な危険運転の誘惑に駆られていた。
リングで戦う期間、戦う相手、引退する時期はあれほど的確に、間違いを犯さなかったハメドなのに、アクセルを踏み込んだときに流れゆく風景のどこに取り憑かれてしまったのだろうか。
まさか、流れ行く風景を捕まえようとしたんじゃあるまいな。
通り過ぎてゆく風景が愛おしいというのなら、彼に教えてあげたい。
確かに、あなたの現役時代は通り過ぎた。
しかし、誰もあなたの煌めきを忘れはしない。誰1人として。
フェザー級であそこまで注目されたボクサーは、他には誰もいない。
あんな戦い方をしたボクサーは、誰もいない。 あれほどファンを熱狂させたボクサーも、他にはいない。
ボクシングを知らない子供でも、あなたの試合を見たらファンになるだろう。
それどころか、ボクシングが大嫌いな大人でも、あなたの試合を見たら、ボクシングの世界に引きずり込まれるだろう。
そして、実際に、ボクシングが大嫌いだった1人の男がハメドの試合にインスパイアされて、ボクシングの世界を広げて見せた。
全国石炭庁のコンピュータシステムアナリスト、ジョン・シェパードはボクシングを毛嫌いしていた。
しかし、ハメドの試合に魅せられてプリンス・プロモーションに転職、1万7000人に及ぶ現役ボクサーの戦績と引退したボクサーの戦績、合わせて130万試合のデータが記録された百科事典サイトを作り上げた。
ハメドは通り過ぎた風景などではない。
今でも彼がリングサイドに現れると、試合そっちのけでカメラマンが群がってくる。
そして、BOXRECはこのスポーツがいかに深くて広大かを、一般のファンにも知らしめた。
ナジーム・ハメドは 一発殿堂は逃したかもしれないが、ファンの心と歴史に名前を残したという点では彼に匹敵するグレートを探すのは非常に難しい作業だ。
++++++++++++
若いボクシングファンは、ナジーム・ハメドのことをリングサイドでときどき見かける太ったおじさんだとしか思ってないかもしれない。
20年以上前、ハメド(またの名をプリンス)は強烈なKOパンチと大言壮語、そしてサーカスまがいの入場でボクシング界に電撃を走らせていた。
1992年、18歳のハメドは生まれ育ったシェフィールドからプロ転向。
奇妙なスタイルのサウスポーは、全盛期にはあらゆるPFPリストに名前を刻み、フェザー級最強と目されていた。
1995年にWBOのピースを強奪、IBFのベルトもコレクションした。
イエメン王朝の支援を受けるハメドはボクサーには珍しくリング外の収入が多く、フォーブス誌のアスリート長者番付100にも入った。
そして1997年11月、米国デビュー戦ではなんとマジソン・スクエア・ガーデンのアリーナが用意された。
当時、ボクシング界最大のパワーハウスだったHBOはハメドの大広告をタイムズスクエアに掲げ、ニューヨーク中のバス停留所にもハメドのポスターを貼ってケビン・ケリーとの一戦を煽った。
試合前には、なんとマイケル・ジャクソンがハメドのトレーニングを表敬訪問、テレビや新聞・雑誌にも大きく取り上げられ、絶大なパプリシティー効果をあげた。
5フィート3インチ、無名のフェザー級ボクサーがニューヨークでヒーローになるなんて、ありえないことだった。
しかし、大きなスポンサー(イエメン王家)をバックに持つハメドにHBOは莫大な先行投資を行った。そして、ハメドは期待通りに「エキセントリックなアラブのボクサー」を演じて、HBOの期待に応えて見せた。
試合当日、MSGの150の席が取り外された。200フィートのランウェイが設営され、ハメドが入場するとド派手なストロボが点滅し、紙吹雪が舞った。
試合もド派手な倒し合いで4ラウンドKO勝利を収める。
その後の3年間もハメドは無敗街道を驀進。戦績は35戦全勝31KOに伸びていた。
そして、運命の2001年4月7日。ネバダ州ラスベガス、MGMグランドガーデンアリーナ。
対戦相手はオッズこそ3-1でハメド有利だったが、自他共にキャリア最強と認めるマルコ・アントニオ・バレラ。
バレラは「トリッキーなボクシングは私には通用しない。それはハメドが一番よくわかっているだろう」と挑発し続け、ハメドも「ラスベガスのリングにバレラを沈める」と応酬。
しかし、あの日のハメドは何かが違った。
その年の1月、私はハメドに会いにシェフィールドに飛んだ。そこで3時間に及ぶインタビューを行った。
それまでのハメドのイメージは多くの人と同様に親しみやすくて、傲慢で、自信家で、派手好きなプリンスだった。
しかし、そこで彼は別の一面を曝け出した。
I created 〝The Prince〟.
「プリンスなんて作られた仮面さ」。
「試合が決まるとスカイスポーツが入場やトラッシュトークのアイデアをいくつか提案、私も意見を出しながらパフォーマンスを決めていた」。
「どうやったら1人でも多くの人が見てくれるか、1枚でも多くのチケットが売れるか。記者会見でのパフォーマンスや入場のショウを考え抜いた。もちろん、面白い試合を見せるのが大前提だ」。
「でも、試合を煽って焚きつける必要が無いのなら、私はあんなことをする性格じゃない」。
そんなことは誰でもわかっていた。あれが〝素〟なら精神異常者だ。
ハメドが非常に頭の切れるセルフプロデューサーであることなんて、誰もが知っていた。
私が驚いたのは、それをハメド自身の口から聞いたことだ。フロイド・メイウェザーなら死ぬまで守銭奴の役を演じ切るだろう。
モハメド・アリがやり遂げたように。
しかし、ハメドはメイウェザーでなかった。ましてや、アリであるはずもなかった。
試合当日の午後、ハメドはMGMグランドホテル29階のスイートルームで「またの名はカシアス・クレイ」のビデオを繰り返し見ていた。
そう、ハメドはわかっていたのだ。
ビデオを見ながらときどき、水を口に含んだ。
その水はメッカの地下水だった。メッカの地下泉から湧く水は、神のご加護がある聖水だと信じられている。
この大勝負が決まってから、ハメドは練習中もこの聖水を少しずつ飲んでいた。
午後2時30分。ハメドはスイートルームを出た。私も一緒だった。10分後には彼の家族や友人らが合流した。
ラスベガスには珍しいことに、朝から小雨が降り続いていた。イスラムにとって雨は神の恵み、砂漠の街に降る雨は僥倖に違いなかった。
そして、キャリア最大の入場パフォーマンスが幕を開ける。
エキゾチックなイスラムの旋律がMGMグランドガーデンアリーナに響き渡る。
激しく吹き上がるスモークと紙吹雪の中から登場するハメド。その左右に3枚ずつ掲げられているアラビア文字は「預言者ムハンマド」と「アッラー」の署名だ。
壇上から階段を降りたところで、今度は火柱が上がる。
ビッグアップル(ニューヨーク)で人気者になったハメドにとってラスベガスはアウエーのはずだが、大観衆はド派手な入場にどよめきっぱなし。
「紙吹雪が体に付着するのと炎の熱が嫌だったから、十分距離をとった。そして、お次は空中散歩。プラットフォームから飛び立ったんだ」。
ハメドが乗ったリングは2本のワイアーに吊られていた。
「少し離れた席だと、細いケーブルは見えなかっただろう。それでも1本で980パウンドの重量まで耐えられる鋼鉄製のワイアーだったから、怖くはなかった。腰に命綱もつないでいた。空飛ぶ絨毯よりも不安定だったけどね」。
ハメドは100フィート(30.48m)まで釣り上げられた。
「怖くはない、観客が喜ぶ声が嬉しい」というハメドだが、試合に影響しないわけがない。不安定な空中遊泳は、試合で発揮しなければならない集中力を削ぐはずだ。
エマニュエル・スチュワードをはじめ陣営には「バレラはハメドのキャリアで飛び抜けて最強の相手。非常に厳しい試合になる。この大勝負に限っては不要なパフォーマンスは要らない」と箴言する者もいたが、ハメドは「大丈夫だ」と笑った。
プリンスは魅せなければならない。そして、ハメドがどよめく観客からエネルギーをもらっていたのも確かだった。
そうすることによって、ハメドは何か別の次元のスーパーマンになれる、そう信じていたのだ。
あれは、そのために必要な儀式だったのだ。
彼を乗せたリングはゆっくりと、リングに続く花道に降りようとした時、客席から飲み物が投げられた。
命綱をつけているとはいえ、非常に危険な行為で、MGMの警備員は「絶対に物は投げてはいけない」と注意するボードを観客に見せていたのだが…。
ハメドはリングに上がる階段でも何か胸騒ぎがした。
「ロープを見て、あっと思い出したんだ。そうだ宙返りするんだ、と。ロープを掴んで感触を確かめたけど、左手のグローブの親指が滑ってしまった。あのグローブだ。仕切り直そうと思ったけど、なぜかロープをくぐってしまった」。
あのグローブ。控え室で一度はめたものの、親指のフィーリングが合わなくて、もう一度やり直した、あのグローブだ。
しかし、控え室で感触がおかしいと、はめ直したのは…右のグローブだった。
試合は、言い訳のできない敗北に終わった。
116−111/115−112*2のユナニマスデジション。バレラは12ラウンドに減点1を課せられたが、それを含んでも、相当にハメド寄りの採点だった。
ハメドのコーナーで指示を出したスチュワードですら「どんなに贔屓目に見てもハメドが取ったのは3ラウンド」と、振り返っている。
この敗北でハメドは二つの大きな武器を同時に失った。
一つは絶対的な自信。
もう一つは対戦相手が不要にハメドを怯懦してくれること。
実際、ハメドの強さはこの二つが全てだった。
一つでも失えば致命的だというのに、ハメドは36分間で二つとも失ってしまったのだ。
その年の秋、世界同時テロが起き、ムスリムへの偏見は増大した。
一旦は内定していたバレラとの再戦はキャンセル。
イスラム色の強烈なパフォーマンスと傲慢な言動のハメドを、狭量な米国が受け入れる器などなかった。
ハメドは1年後に、地元英国ロンドンで空位のIBOフェザー級王座を懸けて、復帰戦のリングに上がる。
相手は34歳のスペイン人、マヌエル・カルボ。33勝14KO4敗と戦績はまずますながら、前戦で7年前にハメドに粉砕されたスティーブ・ロビンソンに2−0でやっと勝ちを拾った凡庸なボクサーだ。
ハメドは無難に勝ったが…かつてのプリンスではなかった。
カルボは120−110/119−109*2の〝準完封負け〟を喫したにもかかわらず「バレラの試合を見たからハメドは全く怖くなかった」と言い放った。
カルボレベルのボクサーでも、ハメドがかつて羽織っていた魔法のガウンを剥ぎ取ることができたのだ。
これ以上、リングに上がることは危険だった。
しかし、ガウンを剥ぎ取られたハメドには世界中から対戦オファーが舞い込んだ。
あれほどの栄光をつかんだボクサーが簡単にグローブを吊るすわけがない。
しかし、驚いたことに、ハメドはきっぱりとリングを去った。
引退後のハメドは…2005年5月、150㎞近いスピードを出して対向車と衝突、対向車の運転手に瀕死の重傷を負わせてしまい、禁固1年3か月の実刑判決を言い渡されてしまう。
そして、最近も時速160㎞のスピード違反で逮捕されてしまった。
ハメドは、病的な危険運転の誘惑に駆られていた。
リングで戦う期間、戦う相手、引退する時期はあれほど的確に、間違いを犯さなかったハメドなのに、アクセルを踏み込んだときに流れゆく風景のどこに取り憑かれてしまったのだろうか。
まさか、流れ行く風景を捕まえようとしたんじゃあるまいな。
通り過ぎてゆく風景が愛おしいというのなら、彼に教えてあげたい。
確かに、あなたの現役時代は通り過ぎた。
しかし、誰もあなたの煌めきを忘れはしない。誰1人として。
フェザー級であそこまで注目されたボクサーは、他には誰もいない。
あんな戦い方をしたボクサーは、誰もいない。 あれほどファンを熱狂させたボクサーも、他にはいない。
ボクシングを知らない子供でも、あなたの試合を見たらファンになるだろう。
それどころか、ボクシングが大嫌いな大人でも、あなたの試合を見たら、ボクシングの世界に引きずり込まれるだろう。
そして、実際に、ボクシングが大嫌いだった1人の男がハメドの試合にインスパイアされて、ボクシングの世界を広げて見せた。
全国石炭庁のコンピュータシステムアナリスト、ジョン・シェパードはボクシングを毛嫌いしていた。
しかし、ハメドの試合に魅せられてプリンス・プロモーションに転職、1万7000人に及ぶ現役ボクサーの戦績と引退したボクサーの戦績、合わせて130万試合のデータが記録された百科事典サイトを作り上げた。
ハメドは通り過ぎた風景などではない。
今でも彼がリングサイドに現れると、試合そっちのけでカメラマンが群がってくる。
そして、BOXRECはこのスポーツがいかに深くて広大かを、一般のファンにも知らしめた。
ナジーム・ハメドは 一発殿堂は逃したかもしれないが、ファンの心と歴史に名前を残したという点では彼に匹敵するグレートを探すのは非常に難しい作業だ。



コメント
コメント一覧 (10)
倒しにいかなかったバレラに怒りさえ覚えました。
最後までパンチ力を恐れていたんだなと、無理やり納得した記憶があります。
ボクシング界の裏事情なんか知らなかった昔の話です。
連勝中の試合はパフォーマンスも含め 最高に面白かった。殿堂入りに意義無しです。
フシ穴の眼
が
しました
フシ穴の眼
が
しました
六車の試合はともかくとしても。
しかし、そんなハメドもマルケス兄との試合は避け続けていたわけで、マルケス兄、モラレス、バレラはやはり別格
フシ穴の眼
が
しました
フシ穴の眼
が
しました
確かにハメドは他のけフェザー級現役、歴代王者と闘い方も かくも ちがっていました。
いろんな格闘技の選手からも、闘い方、スタイルなど参考にされていました。
もう出現しないでしょうね。
フシ穴の眼
が
しました
ハメドの全盛期は世紀末だったと思います。
あの頃はYouTubeなんてみれないから、
マイナー団体の王者の印象しかありませんでした。
防衛記録のばしても、WBO、IBFだから...
WBAも、獲って完全統一してほしかった。
闘い方みてみると、当てカンが、凄く、相手の攻撃を『よけて、当てる』バランスがよいのでしょか?
オーソドックスのバレラは、左ジャブを出しながら、左廻りをしてサウスポーのハメドの攻撃を封じたので
正攻法がハメドの弱点?
あの時期アメリカでテロがあり、(アメリカの自作自演説あり、)
アラブ系のハメドは、(テロリストと勘違いされて)アメリカで試合できなかったんじやないでしょうか?
苦悩があったとおもいます
引き際はあれでよかったんじゃないでしょうか?
時代、時期がずれていたら、軽量級時代のパッキャオとの対戦を視てみたいと、想像してしまいます。
ハメドはアラブ系でしかも軽量級、大手のスポンサーつくなんて信じられないです。
外国、アメリカは、スケールがデカイ!
フシ穴の眼
が
しました