パックマンにマネー、チョコラティト、ハイテク、ジプシーキング、ワンタイム、フィリピーノ・フラッシュ、スイート・ハンド…。

ボクサーの渾名は、このスポーツで絶妙のスパイスになっています。

日本でも「カンムリワシ」「浪速のロッキー」「スピードキング」「神の左」「モンスター」など個性的な渾名がすぐに思い浮かびます。

まあ、渾名なんてものはそもそもが大袈裟な〝広告〟なのですが、どんな事象にも例外はあります。

滅多にありませんが、そのまま真実を射た渾名も確かにあります。

その代表が「炎の男」です。
16299131-炎火の炎のテクスチャ背景
1976年2月18日。

午後3時過ぎ、28歳の無職の男が拳銃を持って横浜銀行新宿支店に「現金30万円を用意しろ」と押し入りました。

行員3人を人質にし、2階事務室に立てこもった男は包囲した警官の説得に応じて投降し、逮捕されるのですが、その説得は「輪島は逆境から立ち上がってチャンピオンになった。昨日の輪島の試合を見ただろう。輪島を見習い人生をやり直せ」というものでした。

輪島功一と柳済斗との第2戦。初戦で7ラウンドKO勝利を収めている柳が圧倒的有利と見られていましたが、15ラウンドKOで奇跡の返り咲きを果たします。

1976年当時は、毎晩のようにボクシングが中継される黄金時代は過ぎ去っていました。

それでも、世界タイトルマッチは他のスポーツでは観ることのできない貴重な国際試合であり、その注目度は現在とは比べるべくもありません。

そんな列島注目の舞台で「2度も世界王者になったんだからもう潮時、引退すべき」「再戦したらもっと酷い負け方をする」と絶望視されていた輪島が躍動し、勝利を掴んだのです。

試合前にわざとらしいまでに大きなマスクをした輪島を見た柳は「輪島の演技」とすぐに見破りましたが、当の輪島は「引っかかった」と思い込みます。

勝手な思い込みで勝利への自信を深めていく…それが輪島の流儀でした。
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輪島はウェルターとミドルという全階級を通して最も高い頂に挟まれた谷底クラス、水増し階級の中で最も日陰の濃いジュニアミドル級で覇権を築いたアジアの強豪王者でした。

白井義男がボクシングにのめりこんだのは小学生で夜祭のカンガルーと試合をして敗北した悔しさからでしたが、輪島の少年時代もお伽話です。


輪島は1943年、樺太で生まれますが、3歳の時にはソ連兵に追われるように北海道に移住。一家の暮らしは極貧で、輪島は中学生になると養子に出されてしまいます。

養子先ではイカ釣り漁船で夕方4時から朝5時までの過酷な労働に放り込まれ「寝るのは学校」という生活。

夜祭りにカンガルーがいることも驚きですが、小学生がボクシングの試合をするなんて想像もできませんし、走って下校するとイカ釣り漁船に飛び乗って朝まで働く中学生も考えられません。

苦労の末に1968年、25歳でプロデビューした輪島はわずか3年で世界チャンピオンになります。 

炎の男はその歯に衣着せぬ物言いでも異彩を放っていました。

日本ボクシングの伝説、ファイティング原田か減量苦を振り返ると「減量が苦しいなんてボクサーが言ったらダメなの。だったら上の階級でやりなさいよ、なんで出来ないの?理由は一つでしょ。だったら黙っていなさい」。

さらには当時の日本のスポーツシーンで最大のヒーロー、王貞治にまで噛み付きます。

「王選手の本塁打記録がベーブ・ルースを抜いたとか、世界記録だとか騒いでるけど、あんなの世界やアメリカじゃ誰も認めてないから」。

当時、世界的にはジュニアミドル級は完全な格落ち階級。

1981年にシュガー・レイ・レナードがWBA王者アユブ・カルレに挑戦したのは、3ヶ月後に控えたトーマス・ハーンズとの決戦に備えた〝試し斬り〟で、9ラウンドでウガンダ人をストップするとさっさとタイトル返上。

80年代でもジュニア階級への軽視は根強かったのですから、輪島が世界タイトルを獲った70年代は推して知るべし、です。

今のジュニアミドル級も上下のミドル・ウェルターと比べてしまうと必然的に日陰ですが、日本のファンにとってのかつての親しみやすさは霧散しています。

輪島はジュニアミドル級だから王者になれたのでしょうか?

70年代のジュニアミドル級で当時の階級最多防衛記録「6」を樹立した輪島の世界戦の質を振り返ってみます。


♣️1971年10月31日:日大講堂 カルメロ・ボッシ  15ラウンドSD(68−67/72−70/70−73)

WBA/WBC完全統一ジュニアミドル級王座獲得。
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28歳の輪島が「カエル跳び」「あっち向いてホイ」と伝説の〝技〟を披露、ローマ五輪銀(ライトミドル級)のイタリア人を競り落とした一戦。

32歳のボッシはこの試合で引退、1年3ヶ月の短命王者でした。

同じイタリア人でジュニアミドル〜ミドルで2階級制覇したニノ・ベンベヌチ(ローマ五輪ウェルター級金、同五輪の最優秀ボクサーにも選出)と時代がかぶったことからも、ジュニアミドルだからというだけでなく、世界的に非常に印象が薄いボクサーでした。

ただ、五輪で銀メダルを獲得、ヨーロッパのウェルター級タイトルも獲った世界基準の実力者。ジュニアライト級が〝天井〟だった日本人、輪島に勝ち目はないと見られていました。大番狂わせでした。


♣️1972年5月7日:福岡スポーツセンター ドメニコ・チベリア  1ラウンド1分49秒KO=防衛①=

カシアス内藤とのミドル級ノンタイトル戦(7ラウンドKO)を経て迎えた初防衛戦。

輪島が「時間差攻撃」と胸を張ったサウスポーにスイッチしての右フックが見事にはまった一戦。

チベリアはイタリアのウェルター、ジュニアミドルの2階級制覇王者で34歳で世界初挑戦。輪島戦前の戦績は63勝16KO17敗7分、直近10試合は4勝5敗1分で2連敗中のロートルでした。


♣️1972年10月3日:日大講堂 マット・ドノバン 3ラウンドKO=防衛②=

輪島より1つ若い28歳のドノバンは17勝8KO8敗3分のトリニダード・トバゴのミドル級王者。

直近10試合3勝6敗で、前の試合もトム・ボッグス(ドノバン戦のあとにカルロス・モンソンの完全統一ミドル級王座に挑戦=5ラウンドTKO負け)に10ラウンドでストップされています。

連続KO防衛の輪島はリング上で「炎の男」を熱唱(口パク)、会場を沸き返らせました。


♣️1973年1月9日:東京体育館 ミゲール・オリベイラ 15ラウンドMD(73−70/71−71*2)=引分け防衛③=

ブラジルからやって来たオリベイラは「エデル・ジョフレの後継者」とまで喧伝された25歳。世界ランキング1位で30戦全勝20KOの最強挑戦者でした。

序盤は一方的でしたが、中盤から互角の展開に。贔屓目なしに見ると明らかな地元判定。

オリベイラは、のちに輪島が柳済斗との防衛戦を選択したことで空位となったWBCのピースをホセ・デュランと争い完勝する実力者でした。


♣️1973年4月19日:大阪府体育館 龍反町 15ラウンドMD(72−71*2/71−71)=防衛④=

東洋無敵のウェルター級王者、龍との一戦はオリベイラ戦に続き薄氷のMD。

日本人対決は意地と意地のぶつかり合いになる試合が多いのですが、この一戦は同門対決(龍はジムの先輩)。

龍は翌1974年、輪島からタイトルを奪ったオスカー・アルバラード(米国)に挑戦(7ラウンドKO負け)。

「ムキになれなかった」(輪島)という平坦な展開に終始してしまいました。

1978年には正真正銘の強豪王者カルロス・パロミノのWBC世界ウェルター級王座に挑戦、やはり7ラウンドで散ります。この試合はラスベガスで行われた日本人初の世界タイトルマッチ(ヒルトンホテル)でした。


♣️1973年8月14日:真駒内アイススケートリンク  シルバノ・ベルチニ 12ラウンド終了TKO=防衛⑤=

北海道への凱旋試合に迎えたのは東京五輪ウェルター級銅メダルのベルチニ。 

クロスレンジで多彩なパンチをまとめる33歳のイタリアンに苦戦を強いられますが、変則的でど根性が持ち味の輪島はエリートアマにとってジョーカーです。

7ラウンドに右ショートを決めると展開は一気にチャンピオンに。12ラウンドにロープに釘付けにしてメッタ打ちにすると、ベルチニは13ラウンドの開始ゴングが鳴ってもストゥールから立ち上がれませんでした。

♣️1974年2月5日:東京体育館 ミゲール・オリベイラ 15ラウンドMD(74−71/73−70/73−73)=防衛⑥=

前年、大苦戦を強いられたオリベイラとの再戦。35勝23KO1分と無敗をキープして、再び輪島に挑むオリベイラは「日本で勝つためには明白な形でないといけない」と気を引き締めていました。

しかし、輪島は「ぼくを舐めてくるだろうね。慢心してリングに上がる。そうなればぼくのペースに持ち込める」と決めつけていました。

この思い込みが、輪島の真骨頂です。思い込みで勝利への自信を固めていくのです。

自信に満ちた輪島は攻勢を続け、ロープを背負う時間が長いオリベイラ。その背中に真っ赤に浮き上ったロープの跡が試合の帰趨を物語っていました。


♣️1974年6月4日:日大講堂 オスカー・アルバラード 15ラウンドKO負け=王座陥落=

小林弘の連続防衛記録6に並んでいた輪島は日本記録更新を賭けてリングに上がります。

〝ショットガン〟アルバラードは輪島より6歳若い25歳でしたが、48勝35KO6敗1分と叩き上げのキャリアは十分。

最強挑戦者オリベイラを撃退した輪島が有利と見られていましたが、12ラウンドに3度倒されて万事休す。

担架で退場した輪島はそのまま1ヶ月の入院。医師は「体のダメージは深刻。年齢も年齢。引退しなさい」と勧めましたが、輪島の目を見て「辞めるつもりはない」と確信、妻に「家族からも引退するよう説得して。取り返しのつかないことになる」とお願いします。

意を決した妻が輪島の病室に行くと、自分に気づかずものすごい形相で腕立て伏せをする夫に「これは何を言っても聞かない」と諦めたといいます。

しかし、輪島のダメージは深刻で退院後のリハビリは歩行訓練からでした…。


♣️1975年1月21日:日大講堂 オスカー・アルバラード 15ラウンドUD(75−68/70−69/69−67)=王座奪還=

誰もが悲劇的な返り討ちを予想した試合は、またもや輪島劇場になりました。

「絶対にタオルは投げるな。ぼくは殴られても死なない人間だから」とセコンドに言うと、1ラウンド開始ゴングからKO負けした相手に攻め込みます。

根拠のないはずの自信に裏付けられたトリッキーなボクシングに翻弄された26歳のショットガンは不発のまま15ラウンド終了。

ユナニマスの判定が読み上がられて輪島の劇的な復活が告げられたとき、それは日本人が王座返り咲きに初めて成功した瞬間でもありました。

…そして、これでも伝説は終わりません。日本人相手に22連勝の柳済斗との連戦が用意されているのです。


輪島は水増し階級だから輝けたのか?

ウェルターやミドルでは世界を獲れなかったのか?

輪島が世界ジュニアミドル級で戦った1971年から76年までの約6年間。

ミドル級は歴代最強の声もあるカルロス・モンソンが絶対王政を敷いていました。

そしてウェルター級もホセ・ナポレスが君臨。

モンソンはもちろん、ナポレスも水増し階級のジュニアミドルのボクサーとは次元が違う歴史的な強豪王者です。

もし、輪島が彼らに挑戦するとなったら悲観的な予想しか出来ません。

しかし、「絶対に勝てない」と決めつけられた試合を何度もひっくり返した輪島が、彼らにだけ大番狂わせが起こせないなんて、誰が言い切れるでしょうか?

「モンソンは油断してくる」「ナポレスは慢心している」。

勝手な思い込みを鋼鉄の自信に変換できる輪島なら、きっともう一つの大番狂わせを起こしていたはずです。