1988年、東京ドームはボクシングの試合によって実質的なこけらが落とされました。
言わずと知れたマイク・タイソンvsトニー・タッブスの世界ヘビー級タイトルマッチです。
現実には、3月21日に行われたメガファイトに先駆け、17日に巨人vs阪神のオープン戦が行われています。しかし、あれはウィークデイ(木曜日)に行われた球遊びの練習試合で意味はありません。
来る3月21日(月・祝=春分の日)に行われる世界が注目するイベントで、出来立てホヤホヤのドームに不具合がないかをチェックする予行演習という意味はありましたが。
完成したばかりの全天候型多目的スタジアムは、タイソンの拳によってお披露目されたのです。
「日本初のドーム」は当時、〝巨大〟スタジアムでもありました。後楽園球場ではレフト中断に本塁打を叩き込んでいた原辰徳の打球がフェンスを越えることができず、スポーツファンはその広さにため息をつきました。
今では想像もできないかもしれませんが、東京ドームは広くて本塁打の出にくい球場だったのです。
憎き読売の本拠地、東京ドームの悪口を書き出すと、また脇道に逸れてしまうので話を戻して…。
今は「東京ドーム」と呼ばれることがほとんどですが、当時のメディアは愛称である「ビッグエッグ」を好んで使っていました。しかし、見事に定着しませんでした。
今、「ビッグエッグ」なんて言うと「何?それ?」って聞かれかねません。
1988年、バブルが膨張し始めたカラフルな時代でした。
そして、世界のスポーツを体感したことがない日本にとって「マイク・タイソン」は、のちに日本で行われるサッカーW杯も上回る「本物が来る」という刺激と興奮の塊のようなイベントでした。
試合の5週間も前、2月17日に来日した「世界一有名なアスリート」はホテルニューオータニのワンフロア丸々を占拠。
この日から1ヶ月余り続く、お祭りが開幕します。
タイソンはスイートルームにかりそめの居を構え、のちの世界王者オリバー・マッコールら5人の豪華スパーリングパートナーを引き連れ、翌朝にはまだ薄暗いうちに起床、迎賓館から絵画館へロードワークしました。
ホテル前で待ち構えていた多くの記者とカメラマンが、タイソンを追いかけます。
ちなみに、ホテルの滞在費は約4000万円、スパーリングパートナー5人に支払われた1ヶ月の報酬は各120万円、計600万円。食費なども含めた陣営の滞在費は2億円を超えました。
大好物のメロンが1個3000円(どこのメロンやねん?千疋屋?)と聞き、「高い!」と驚いたタイソンでしたが、誰もが「いや、あんたにとったら激安やん」と誰もが突っ込んだものでした。
とにかく、何もかも、全てが規格外。
ファイトマネーはタイソンが6億5000万円、タッブスが1億400万円と聞くと、パックメイを知る人は「安ッ!」と思うかもしれませんが、これも当時としては破格。
Lineal Championマイケル・スピンクスとの決戦では、スポーツ史上最高報酬の22億円が最低保障されていたタイソンにとって、タッブス戦はまさに肩慣らし、オープン戦でした。
日本史上、ペリーとかマッカーサーとかモハメド・アリとか多くの来賓・国賓、ピッグネームがこの国にやって来ましたが、最も贅沢に振舞って、最も注目を浴びたのはタイソンです(ペリーとマッカーサー、アリの時代は知りませんが…)。
日本テレビの大スタジオでの記者会見は米国の主要都市と同時生中継、高砂部屋に大関・小錦を訪ねてちゃんこ鍋を食べるなど、世界のスーパーアイドルとしてのスケジュールもこなし、タイソンがどこへ行ったか、何を食べたか、その一挙一動がテレビやラジオ、新聞・雑誌で毎日取り上げられました。
米国でも超がいくつもつく有名人でメディアに追い回されるのは慣れっこのタイソンでしたが、日本でのフィーバーには「クレージー」と何度も口にしてしまうほど。あまりに激しいカメラのフラッシュに、陣営は「1社につきカメラマンは1人」と報道規制を敷きます。
複数のカメラマンが許されたのは〝今は亡き〟HBO。タイソンと6試合35億円の巨額の契約を締結したばかりで、メインの解説をつとめるシュガー・レイ・レナードをはじめ何と60人の大部隊を東京に送り込んでいました。
とにかく、もう何もかも、全てが規格外でした。
「これは私たちがよく知っているボクシングの世界タイトルマッチとは全く違う」。
誰もがこれから見ることになるスペクタクルの大きさに、気づいていました。
別世界の怪物と、私たちをつないでくれたのは一つの有名なエピソードです。
…タイソンフィーバーに沸くある日、取材にニューオータニを訪ねたファイティング原田は、ガードマンに行く手を遮られてしまいます。
日本メディアのパパラッチぶりにうんざりしていたタイソンは、スケジュールに組み込まれた予定すら拒否するようになっていました。
ましてや、アポなし訪問なんて受け入れるわけがありません。
しかし、その名前を聞いたタイソンは「私が最も尊敬しているボクサーの1人だ。本当に原田本人か?」と確認すると「部屋に通してくれ」となんと自室に招き入れたのです。
クラシックファイトから多くを学んだタイソンの教科書の一つが「原田vsエデル・ジョフレ」でした。
来日が決まってからも「原田はまだ生きているのか?」と気にかけていたタイソンにとって、ご本人が自分を訪ねて来たことには感動したでしょう。
カス・ダマトが「小さなファイターの仕事は距離を潰すこと」と教え、何度も見た白黒ビデオの中で躍動していた原田。
ベッドルームの壁に原田vsジョフレの写真がピン留めされていたのを見た偉大な原田も、さぞかし嬉しかったでしょう。
そして、タイソンの出待ちでたむろしていた大勢の報道陣は、タイソンの許可がなければエレベーターが止まらない最上階フロアのスイートルームに招かれた原田の後ろ姿に、母国のグレートがいかに尊敬された存在であるのかを思い知ったことでしょう。
言わずと知れたマイク・タイソンvsトニー・タッブスの世界ヘビー級タイトルマッチです。
現実には、3月21日に行われたメガファイトに先駆け、17日に巨人vs阪神のオープン戦が行われています。しかし、あれはウィークデイ(木曜日)に行われた球遊びの練習試合で意味はありません。
来る3月21日(月・祝=春分の日)に行われる世界が注目するイベントで、出来立てホヤホヤのドームに不具合がないかをチェックする予行演習という意味はありましたが。
完成したばかりの全天候型多目的スタジアムは、タイソンの拳によってお披露目されたのです。
「日本初のドーム」は当時、〝巨大〟スタジアムでもありました。後楽園球場ではレフト中断に本塁打を叩き込んでいた原辰徳の打球がフェンスを越えることができず、スポーツファンはその広さにため息をつきました。
今では想像もできないかもしれませんが、東京ドームは広くて本塁打の出にくい球場だったのです。
憎き読売の本拠地、東京ドームの悪口を書き出すと、また脇道に逸れてしまうので話を戻して…。

今、「ビッグエッグ」なんて言うと「何?それ?」って聞かれかねません。
1988年、バブルが膨張し始めたカラフルな時代でした。
そして、世界のスポーツを体感したことがない日本にとって「マイク・タイソン」は、のちに日本で行われるサッカーW杯も上回る「本物が来る」という刺激と興奮の塊のようなイベントでした。
試合の5週間も前、2月17日に来日した「世界一有名なアスリート」はホテルニューオータニのワンフロア丸々を占拠。
この日から1ヶ月余り続く、お祭りが開幕します。
タイソンはスイートルームにかりそめの居を構え、のちの世界王者オリバー・マッコールら5人の豪華スパーリングパートナーを引き連れ、翌朝にはまだ薄暗いうちに起床、迎賓館から絵画館へロードワークしました。
ホテル前で待ち構えていた多くの記者とカメラマンが、タイソンを追いかけます。
ちなみに、ホテルの滞在費は約4000万円、スパーリングパートナー5人に支払われた1ヶ月の報酬は各120万円、計600万円。食費なども含めた陣営の滞在費は2億円を超えました。
大好物のメロンが1個3000円(どこのメロンやねん?千疋屋?)と聞き、「高い!」と驚いたタイソンでしたが、誰もが「いや、あんたにとったら激安やん」と誰もが突っ込んだものでした。
とにかく、何もかも、全てが規格外。
ファイトマネーはタイソンが6億5000万円、タッブスが1億400万円と聞くと、パックメイを知る人は「安ッ!」と思うかもしれませんが、これも当時としては破格。
Lineal Championマイケル・スピンクスとの決戦では、スポーツ史上最高報酬の22億円が最低保障されていたタイソンにとって、タッブス戦はまさに肩慣らし、オープン戦でした。
日本史上、ペリーとかマッカーサーとかモハメド・アリとか多くの来賓・国賓、ピッグネームがこの国にやって来ましたが、最も贅沢に振舞って、最も注目を浴びたのはタイソンです(ペリーとマッカーサー、アリの時代は知りませんが…)。
日本テレビの大スタジオでの記者会見は米国の主要都市と同時生中継、高砂部屋に大関・小錦を訪ねてちゃんこ鍋を食べるなど、世界のスーパーアイドルとしてのスケジュールもこなし、タイソンがどこへ行ったか、何を食べたか、その一挙一動がテレビやラジオ、新聞・雑誌で毎日取り上げられました。
米国でも超がいくつもつく有名人でメディアに追い回されるのは慣れっこのタイソンでしたが、日本でのフィーバーには「クレージー」と何度も口にしてしまうほど。あまりに激しいカメラのフラッシュに、陣営は「1社につきカメラマンは1人」と報道規制を敷きます。
複数のカメラマンが許されたのは〝今は亡き〟HBO。タイソンと6試合35億円の巨額の契約を締結したばかりで、メインの解説をつとめるシュガー・レイ・レナードをはじめ何と60人の大部隊を東京に送り込んでいました。
とにかく、もう何もかも、全てが規格外でした。
「これは私たちがよく知っているボクシングの世界タイトルマッチとは全く違う」。
誰もがこれから見ることになるスペクタクルの大きさに、気づいていました。
別世界の怪物と、私たちをつないでくれたのは一つの有名なエピソードです。
…タイソンフィーバーに沸くある日、取材にニューオータニを訪ねたファイティング原田は、ガードマンに行く手を遮られてしまいます。
日本メディアのパパラッチぶりにうんざりしていたタイソンは、スケジュールに組み込まれた予定すら拒否するようになっていました。
ましてや、アポなし訪問なんて受け入れるわけがありません。
しかし、その名前を聞いたタイソンは「私が最も尊敬しているボクサーの1人だ。本当に原田本人か?」と確認すると「部屋に通してくれ」となんと自室に招き入れたのです。
クラシックファイトから多くを学んだタイソンの教科書の一つが「原田vsエデル・ジョフレ」でした。
来日が決まってからも「原田はまだ生きているのか?」と気にかけていたタイソンにとって、ご本人が自分を訪ねて来たことには感動したでしょう。
カス・ダマトが「小さなファイターの仕事は距離を潰すこと」と教え、何度も見た白黒ビデオの中で躍動していた原田。
ベッドルームの壁に原田vsジョフレの写真がピン留めされていたのを見た偉大な原田も、さぞかし嬉しかったでしょう。
そして、タイソンの出待ちでたむろしていた大勢の報道陣は、タイソンの許可がなければエレベーターが止まらない最上階フロアのスイートルームに招かれた原田の後ろ姿に、母国のグレートがいかに尊敬された存在であるのかを思い知ったことでしょう。
コメント
コメント一覧 (3)
ファイティング原田と木村政彦はいくつかの点で似ていると思います。
下の名前が両方「政彦」な事と、打撃と組技格闘技の中で最もメジャーなボクシングと柔道のそれぞれオールタイム最強と言われている点。
あとは、百田尚樹と増田俊也が伝記を書いてお互いの本の帯を書き合っている、というつながりもありますね。
まぁ、本の面白さの勝負では増田俊也氏の完勝、という感じでしたが・・・。
フシ穴の眼
が
しました