1970年代までプロボクシングは、観戦スポーツの王様でした。
大相撲はもちろん、プロ野球もドメスティックに引きこもっていた時代、世界に挑む日本人を熱く応援できるのはプロボクシングだけでした。
しかし、団体分裂と階級の増殖からボクシング人気は下り坂を転がり落ち始めます。この凋落傾向は歯どめが効かないまま、現在に至っています。
それでも、市場低迷の打開策が見出せないまま、中長期的にはけしてボクシング界の再活性化につながるわけがないアダ花がいくつか咲きました。
明らかに実力が伴わないアイドルボクサーという、人気先行のアダ花です。
しかし、アダ花というのは美しく咲き誇るものです。だから、アダ花なのですが。
独断と偏見の、アイドルボクサーランキングです。
第5位:青木勝利 アイドル度45%/実力55%
第4位:ピューマ渡久地 アイドル度50%/実力50%
第3位:赤井英和 アイドル度80%/実力20%
第2位:大和武士 アイドル度85%/実力15%
第1位:福田健吾 アイドル度95%/実力5%
🌃第一夜🌃青木勝利(1960年デビュー〜1967年引退/48勝25KO14敗4分)

日本ボクシング全盛期の1960年代に、フィティング原田、海老原博幸と共に「三羽ガラス」と呼ばれた青木勝利を「アイドル」と呼ぶのは間違っているのかもしれません。
しかし、三羽ガラスの中で最も素質があり将来を嘱望されながらも、結局は3人の中でただ一人、青木だけが世界王者になれませんでした。
生まれは1942年、太平洋戦争が勃発した年です。16歳で収監された少年院で観たテレビのボクシング中継に感銘を受け、退院するとすぐに三鷹ジムの門を叩き、住み込み練習生となりました。
「あしたのジョー」には、ファイティング原田の苛酷な減量など、実話も散りばめられ「ウルフ金串のモデルは青木」と聞いたこともありましたが、私の手元にある貧弱な資料を漁ってもその真偽は確かめられませんでした。
1942年生まれの青木は、やはり少年院でくすぶっていた矢吹丈や力石徹と同世代でした。
青木は「練習嫌いの天才」「ノミの心臓」の典型で「ロードワークに出かけても公園で酒を飲んで、池の水をかぶって汗に見せかけてジムに帰った」「試合前には恐怖で失踪することが何度もあった」「試合の前日から酒を飲んで恐怖を紛らわせた」「試合前に酒でも寝つけられないときは大量の睡眠薬を飲んだ」…そんなエピソードには事欠きません。
その強打から青木のパンチは「メガトンパンチ」と呼ばれ、デビュー戦から無勝街道をひた走ります。
1961年4月5日、16勝7KO1分で迎えたのが海老原博幸との「史上最大の6回戦」。
「メガトンパンチ」vs「カミソリパンチ」の結果は、海老原の2ラウンドKO勝ち。
このとき私は生まれてもいませんが、6回戦とはいえテレビで生中継されたと聞いています。毎晩、ゴールデンタイムに民放各局がボクシング番組を持っていたボクシング黄金時代でした。
海老原戦の敗因を聞かれて、青木は「酒の飲み過ぎ」と悪びれずに言い放ちました。
それでも。
海老原とのライバル対決に敗れてからも青木の才能は陰りを見せません。再び連勝街道に乗ると33勝18KO1敗1分まで星を伸ばします。
そして、ついにその舞台に立ちます。
1963年4月4日、蔵前国技館、世界バンタム級タイトルマッチ。当時は11階級、1団体時代です。世界王者は全員がリネラルチャンピオンであり、アンディスプーテッドチャンピオンだった古き良き時代です。
しかも、その相手はPFP1位のエデル・ジョフレ。
当時PFPという考え方は広く浸透していませんでしたが、リング誌などの〝事後〟評価でジョフレはモハメド・アリという巨星が最も輝きを放った60年代という10年間で、PFP1位と図抜けた評価を得ています。
ジョフレ戦が決まってからは「死刑犯が刑の執行を待つような気分だった」「勝てる訳がない」と弱気に落ち込んでいたと回想しながらも、引退後に「どうして世界王者になれなかったのか?」という問いには「運がなかっただけ」と語り、「もしジョフレに勝っていたら、あなたが原田になっていた。人生が180度変わった」と言われても「そんなことはない。ジョフレに勝ったからって人生が変わるものか」とシニカルに吐き捨てています。
一番、突き刺さるのは、それが虚勢や嘘だったとしても「ジョフレに勝ったからって人生が変わるものか」という言葉ですね。それを言ってしまったら、本当に何も変わらない、何も成し遂げることなんて出来ません。
試合前の青木はほぼ絶食状態、リミットいっぱいで計量をパスした時は重度の脱水状態でした。
「勝てる訳がない」という弱気な言葉とは裏腹に、1ラウンドから青木は攻勢をかけます。しかし、攻防分離の完成型であるジョフレは、青木の猛攻を固いガードで防ぎながら、ガードの隙間から攻撃に転じるタイミングを冷徹に探っていました。
ジョフレが攻勢に転じると、形勢は一方的になりました。3ラウンドに強烈なボディブローで2度倒されてKO負け。

大相撲はもちろん、プロ野球もドメスティックに引きこもっていた時代、世界に挑む日本人を熱く応援できるのはプロボクシングだけでした。
しかし、団体分裂と階級の増殖からボクシング人気は下り坂を転がり落ち始めます。この凋落傾向は歯どめが効かないまま、現在に至っています。
それでも、市場低迷の打開策が見出せないまま、中長期的にはけしてボクシング界の再活性化につながるわけがないアダ花がいくつか咲きました。
明らかに実力が伴わないアイドルボクサーという、人気先行のアダ花です。
しかし、アダ花というのは美しく咲き誇るものです。だから、アダ花なのですが。
独断と偏見の、アイドルボクサーランキングです。
第5位:青木勝利 アイドル度45%/実力55%
第4位:ピューマ渡久地 アイドル度50%/実力50%
第3位:赤井英和 アイドル度80%/実力20%
第2位:大和武士 アイドル度85%/実力15%
第1位:福田健吾 アイドル度95%/実力5%
🌃第一夜🌃青木勝利(1960年デビュー〜1967年引退/48勝25KO14敗4分)

BoxRecでは青木勝利の画像がありません。一世を風靡したスター選手としては寂しい限りです。
日本ボクシング全盛期の1960年代に、フィティング原田、海老原博幸と共に「三羽ガラス」と呼ばれた青木勝利を「アイドル」と呼ぶのは間違っているのかもしれません。
しかし、三羽ガラスの中で最も素質があり将来を嘱望されながらも、結局は3人の中でただ一人、青木だけが世界王者になれませんでした。

「あしたのジョー」には、ファイティング原田の苛酷な減量など、実話も散りばめられ「ウルフ金串のモデルは青木」と聞いたこともありましたが、私の手元にある貧弱な資料を漁ってもその真偽は確かめられませんでした。
1942年生まれの青木は、やはり少年院でくすぶっていた矢吹丈や力石徹と同世代でした。
青木は「練習嫌いの天才」「ノミの心臓」の典型で「ロードワークに出かけても公園で酒を飲んで、池の水をかぶって汗に見せかけてジムに帰った」「試合前には恐怖で失踪することが何度もあった」「試合の前日から酒を飲んで恐怖を紛らわせた」「試合前に酒でも寝つけられないときは大量の睡眠薬を飲んだ」…そんなエピソードには事欠きません。
その強打から青木のパンチは「メガトンパンチ」と呼ばれ、デビュー戦から無勝街道をひた走ります。
1961年4月5日、16勝7KO1分で迎えたのが海老原博幸との「史上最大の6回戦」。
「メガトンパンチ」vs「カミソリパンチ」の結果は、海老原の2ラウンドKO勝ち。
このとき私は生まれてもいませんが、6回戦とはいえテレビで生中継されたと聞いています。毎晩、ゴールデンタイムに民放各局がボクシング番組を持っていたボクシング黄金時代でした。
海老原戦の敗因を聞かれて、青木は「酒の飲み過ぎ」と悪びれずに言い放ちました。
それでも。
海老原とのライバル対決に敗れてからも青木の才能は陰りを見せません。再び連勝街道に乗ると33勝18KO1敗1分まで星を伸ばします。
そして、ついにその舞台に立ちます。
1963年4月4日、蔵前国技館、世界バンタム級タイトルマッチ。当時は11階級、1団体時代です。世界王者は全員がリネラルチャンピオンであり、アンディスプーテッドチャンピオンだった古き良き時代です。
しかも、その相手はPFP1位のエデル・ジョフレ。
当時PFPという考え方は広く浸透していませんでしたが、リング誌などの〝事後〟評価でジョフレはモハメド・アリという巨星が最も輝きを放った60年代という10年間で、PFP1位と図抜けた評価を得ています。
ジョフレ戦が決まってからは「死刑犯が刑の執行を待つような気分だった」「勝てる訳がない」と弱気に落ち込んでいたと回想しながらも、引退後に「どうして世界王者になれなかったのか?」という問いには「運がなかっただけ」と語り、「もしジョフレに勝っていたら、あなたが原田になっていた。人生が180度変わった」と言われても「そんなことはない。ジョフレに勝ったからって人生が変わるものか」とシニカルに吐き捨てています。
一番、突き刺さるのは、それが虚勢や嘘だったとしても「ジョフレに勝ったからって人生が変わるものか」という言葉ですね。それを言ってしまったら、本当に何も変わらない、何も成し遂げることなんて出来ません。
試合前の青木はほぼ絶食状態、リミットいっぱいで計量をパスした時は重度の脱水状態でした。
「勝てる訳がない」という弱気な言葉とは裏腹に、1ラウンドから青木は攻勢をかけます。しかし、攻防分離の完成型であるジョフレは、青木の猛攻を固いガードで防ぎながら、ガードの隙間から攻撃に転じるタイミングを冷徹に探っていました。
ジョフレが攻勢に転じると、形勢は一方的になりました。3ラウンドに強烈なボディブローで2度倒されてKO負け。

エデル・ジョフレの伝記本で、表紙に使われているのが、このとき戦慄のボディブローで青木を悶絶させたシーンでした。
その後、OPBFバンタム級王座を獲得しますが、最後の12戦は2勝10敗。
リングを降りてからは日雇い仕事や飲食店に職を求めましたが、いずれも長続きはせず、そのいく先々で窃盗や無銭飲食、暴行・傷害事件を繰り返し、身を持ち崩してしまいます。
私が、青木勝利の名前を初めて聞いたのは、80年代に「消息を絶った有名人」を特集したテレビ番組だったと記憶しています。
そのときも「盗んだり殴ったりしたことはない」と自分を正当化していましたが、青木の消息が確かめられたのは、それが最後だったようです。
アイドルと呼ぶには、青木の生き様には、浮ついた華やかさのない、悲しみと虚無に満ちていたように思えます。
青木勝利は「あの人は今」の先駆けのような人物でした。
今もどこかで生きているなら、往時のボクシング界の盛り上がりぶりを、是非聞かせて欲しいですね。
凄まじい時代に、凄まじい経験をされた方ですから。
コメント
コメント一覧 (2)
ご指摘ありがとうございます。
青木はジョフレに敗れた後に東洋もアギーレに敗れて陥落、その後にアギーレから奪還しています。私の書き方も「獲得」ではなく「返り咲いた」とするべきだったかもしれません。
ジョフレに粉砕されたあとも朽ち果てたわけじゃなかったんです、それほどの才能だったのだと思います。
ご存命ではないとは思いますが、日本のボクシングシーンで絶対に欠かせないキャラクター、日本のボクシングファンからすると彼がいなければ原田はもちろんジョフレの輝きも何ルクスか減退していたと思います。