日本人が世界戦で拳を交えた最強のボクサーは誰か?

PFPにその名を連ねたレジェンドなら、エデル・ジョフレ、ロベルト・デュラン、ウィルフレド・ゴメス、アレクシス・アルゲリョ、ローマン・ゴンザレス… 。

日本人として最も分厚い壁であったろうボクサーなら、ミドル級のウィリアム・ジョッピーも最強候補かもしれません。

いずれにせよ、日本人が最強ボクサーに果敢に挑んだのですから、その世界タイトルマッチは多くのファンに鮮烈な印象を残しました…そのはずですが…。

悲しい例外のリングに二人の日本人サウスポーが散ったことがありました。

1982年7月2日、WBAジュニアウェルター級王者アーロン・プライヤーに挑んだ亀田昭雄。そのリングが米国オハイオ州シンシナティのリバーサイドコロシアムではなく、日本武道館や国技館であったなら遥かに注目されていたでしょう。

試合展開ももっともつれたかもしれません。シンシナティの鷹から初回にダウンを奪ったのも、舞台が日本なら大歓声が沸き上がっていたのは間違いありません。プライヤーのペースが大きく乱れた可能性もあります。

そして1985年4月26日、プライヤー同様、未来の一発殿堂ジェフ・フェネックの挑戦を世界王者として受けて立ったのが新垣諭でした。新垣が上がったリングも敵地(豪州シドニー・ホーデンパビリオン)でしたが、沖縄糸満生まれのサウスポーにとって不幸だったのは、彼が保持していたのが新興団体IBFのタイトルだったということです。

時系列は逆転してしまいますが、亀田昭雄の前に〝新垣諭のIBF〟の話から始めます。
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1983年に産声をあげたIBFはマイナー団体としてスタート、日本では80年代後半になってもマイナー団体扱いで、ボクシングマガジンでも「各国・地域チャンピオン」欄に小さく取り上げられる存在でした。=ボクシングマガジン1986年3月号=

 WBAの諮問機関(=評議会:Counsil)だったWBCが1968年に完全に分離独立(IBFもWBOもWBAからの分離独立というプロセスを経ています)したときは、すみやかに二大勢力体制が形成されましたが、IBFは乱気流の中での離陸を余儀なくされてしまいます。

WBA傘下のUSBAが元WBA副会長のボブ・リーの指揮のもと「WBAとWBCは不正な会計とインチキランキングでプロボクシングの地位を貶めてきたが、これ以上は看過できない」と1983年4月に国際部(USBAI)を設立すると、一気にIBFへ発展しました。

公正なランキングとプロボクサーの福利厚生など、業界の改革を謳った大義名分を掲げたIBFでしたが、その〝真意〟は中南米に奪われた覇権を米国に取り戻すことでした。

そして、NBAから1962年に改称したWBAの諮問機関として翌1963年に設立、完全独立の1968年までに十分な根回し・準備期間のあったWBCとは違い、一気のクーデターで設立されたIBFは〝事を急ぐ〟必要がありました。

4月の設立から4ヶ月後の8月、大阪でIBFアジア(梁元錫コミッショナー)と、IBFジャパン(川口正志コミッショナー)の設立総会が開催されました。※梁元錫=柳川二郎

IBFジャパンの旗振り役の池田久事務局長は「ジムシステムからマネージャーシステムの採用で、選手はナンセンスなジムの束縛から解放される」と、旧弊打破も標榜しましたが、ジムシステムを前提とする日本ボクシングコミッションは「一国一コミッションが大原則」とIBFジャパンを認めません。

そして全日本ボクシング協会もIBFを承認団体として認めず、IBFという船はアジア最大のマーケット日本への寄港に失敗します。

それでもIBFジャパンは12月10日、大阪城国際文化スポーツホールでダブル世界戦を挙行しました。 

ジュニアフライ級に新垣諭、ジュニアバンタム級で春日井健が初代王座決定戦のリングに上がりますが、二人ともKO負けに散ります。

このとき新垣は4勝3KO1分、春日井は5勝2KO1分、共に無敗のホープ。どちらが勝っても具志堅用高の持つ最短記録9戦目を更新するスピード挑戦でしたが、二人の実力と実績が世界挑戦に見合うものであると考えるファンやメディアは、誰一人としていませんでした。