小池重明(こいけ・じゅうめい)の父親は五体満足にもかかわらず、傷痍軍人を装って物貰い、乞食をしていた。母親は人気のない売春婦で、自宅に客を引き込むこともあった。
今ならとんでもない話かもしれないが、これは先の大戦の前後のこと。誰もが今日を生きるために、のたうち回っていた時代だ。
小池重明が生まれたのは、1947年12月24日のことだった。
全くの偶然でしかないが、後年になって日本で最も抱きしめられることになる南蛮舶来のイベント、華やかなクリスマス・イブが小池の誕生日だなんて、失礼ながら大笑いするしかない。
一年365日もあるというのに、よりによって、クリスマス・イブだなんてとんでもない確率のギャグだ。

時代と、血と生い立ちと環境。小池は、野垂れ死にしても当たり前な、そんな男だった。
小池は…喧嘩っ早いわりには喧嘩は弱く、女癖が悪いわりにはモテなかった。手っ取り早くいうと、男からも女からも、周囲から疎まれる最悪のトラブルメーカーだったのだ。
ところが…。極めて稀に、本当に極めて稀に、夜空に流れ星が七つ同時に滑り降りることがあるように、どういうわけだか、小池は神がかり的に将棋が強かった。
野球もサッカーも、ボクシングですら「今はそれどころではない」という、今日を生きるので精一杯だった時代。
当時の将棋は、日本人が気軽に楽しめる唯一の娯楽であり、ある意味でスポーツであり、将棋の名人は国民的英雄だった。
社会の底辺に沈澱していた小池が「自分には将棋しかない」と気づいていたのは、間違いない。
そして、高校を中退して、その道に進む。
住み込みで働いていた上野の将棋センターでも、その強さは異次元だった。
「今すぐにでも、プロの名人に勝てる」。誰もがそう確信した。
しかし、酒と女に溺れ、挙句は勤務先で金を横領。師匠からは破門され、前科までついて、プロの道は閉ざされてしまう。
それでも、しかし。
かつて、メジャーな娯楽、国民的人気を博していたボクシングがそうであったように、将棋にも〝ドサ回り〟のマーケットがあった。
賭け将棋である。
それを生業とする者は真剣師と呼ばれて、実力には一目置かれていた。
表舞台の「プロ」がメジャーリーグなら、地下・裏の「真剣士」はマイナーリーグという表現は間違っている。
「プロ」が〝メジャー〟なら、トップの「真剣師」は〝ニグロリーグ〟という見立てが正鵠を射ているだろう。
いや、それよりも表の「柔道」、裏の「柔術」といった方がわかりやすいか。
新宿の将棋道場、賭け将棋。日本全国から駆けつける腕自慢の真剣師を相手に回して無敗街道を驀進した小池は「新宿の殺し屋」と呼ばれるようになる。
将棋なんて所詮はボードゲーム、殺し屋なんて大袈裟な、そう思った方もいるかもしれない。ところが、当時は〝メジャー〟と〝ニグロ〟にも交流があったのだ。
つまり、小池は「プロ殺し」だった。
小池が賭けられた賞金以上の金額を手にすることも珍しくなかった。窮地に追い込まれた相手に持ち駒を売っていたからだ。
「飛車角、五千円なり」。
将棋とは不思議な世界で、伝統と格式が重くのしかかっているように見えて、今もアベマが大スポンサーであるように、そんなことは一切ない。
つまり、誰が強いのか、それだけを追求する世界だ。
そして、雑誌「リベルタン」が、空前絶後のメガファイトを企画する。
「プロ殺し」にとっては最高の舞台が用意された。相手はなんと、大山康晴名人。
実はこの前夜、泥酔した小池は酒場の店員を殴り逮捕されていた。
熱狂的な将棋ファンだった都議会議員の計らいで釈放された小池は、大一番の舞台にひどい二日酔いの状態で現れる。
対局は…。
小池は角落ちのハンデ戦とはいえ、あろうことか名人に勝利してしまうのだ。
「あしたのジョー」に出てくるドサ周りの拳闘屋が、井上尚弥や井岡一翔、中谷潤人らに非公式戦でKO勝ちするようなものだ。
ちなみに、まだ小学生低学年だった藤井聡太は通っていた将棋教室でこのメガファイトの棋譜を見て感銘を受けたという。
真剣師の小池重明こそが最強の将棋打ちだ。
小池の、プロ棋士になる夢は再び火を灯した。
問答無用の実力が認められて、ついに日本将棋連盟は厳格な年齢制限などを取り払う〝超法規的措置〟でプロ編入の道を整えたのだ。
しかし、小池の〝身体検査〟は噂以上に真っ黒だった。
寸借詐欺に持ち逃げ、酔っ払っての暴行事件、人妻と恋に落ちるが挙句にフラれ…そんなことを何度も繰り返す小池を出入り禁止にしている賭け将棋の会場も少なくなかった。
地下将棋の世界でも、小池は問題児だったのだ。
実力至上がモットーのプロでも、試合となると借金取りやヤクザが詰めかける小池の素行は見逃すことが出来るレベルではなかった。
連盟は小池の希望を却下する。
ショックを受けた小池は自暴自棄になり、ますます放蕩で不摂生な生活に堕ちていった。肝硬変などを患い、心身ともにボロボロになった。
それでも、それなのに、賭け将棋では無敵だった。とにかく恐ろしいほど強かった。
自分の生涯をカウントダウンした小池は最後の大勝負を渇望する。
「死ぬのは、あの男と刺し違えてからだ」。
そして、またしてもリベルタン誌が超弩級のメガファイトをセットした。
その相手は、史上初の全冠独占王者。
1982年2月27日。対決の舞台は広尾羽澤ガーデン。格闘技の世界で例えるなら、マディソン・スクエア・ガーデンのようなものだ。
元王者は気高いプライドから角落ちで対局に臨んだが、勝敗そのものには大きな興味が注がれることはなかった。
史上初の全冠独占王者と言っても引退してから3年もの歳月が流れ、来月64歳になるご老体。
トッププロを軒並み轟沈させてきた35歳の〝プロ殺し〟は言い放った。
「年寄りをいじめるのは気の毒だ。ピンチになったら駒を売りますから遠慮なく言って下さい」。
風貌だけ見れば、小池が表のプロ棋士で、史上初の全冠独占王者は裏の真剣士にしか見えなかったが、実際は逆だ。
小学生だった羽生善治はアマ名人戦・都下予選で、小池の対局の記録係を担当した。羽生はのちに「生き様通りに将棋自体は型破りそのもの。しかし、とにかく強かったと鮮明に憶えている」と語っている。

その羽生が史上3人目の全冠独占王者になると、将棋年鑑のアンケート「指してみたい棋士」に、全ての棋士の中でも人気No.1に名前があがったのは升田幸三だった。
将棋のオールタイムPFPは、史上4人目の全冠独占王者・藤井聡太でも、3人目の羽生善治でもない。
今ならとんでもない話かもしれないが、これは先の大戦の前後のこと。誰もが今日を生きるために、のたうち回っていた時代だ。
小池重明が生まれたのは、1947年12月24日のことだった。
全くの偶然でしかないが、後年になって日本で最も抱きしめられることになる南蛮舶来のイベント、華やかなクリスマス・イブが小池の誕生日だなんて、失礼ながら大笑いするしかない。
一年365日もあるというのに、よりによって、クリスマス・イブだなんてとんでもない確率のギャグだ。

時代と、血と生い立ちと環境。小池は、野垂れ死にしても当たり前な、そんな男だった。
小池は…喧嘩っ早いわりには喧嘩は弱く、女癖が悪いわりにはモテなかった。手っ取り早くいうと、男からも女からも、周囲から疎まれる最悪のトラブルメーカーだったのだ。
ところが…。極めて稀に、本当に極めて稀に、夜空に流れ星が七つ同時に滑り降りることがあるように、どういうわけだか、小池は神がかり的に将棋が強かった。
野球もサッカーも、ボクシングですら「今はそれどころではない」という、今日を生きるので精一杯だった時代。
当時の将棋は、日本人が気軽に楽しめる唯一の娯楽であり、ある意味でスポーツであり、将棋の名人は国民的英雄だった。
社会の底辺に沈澱していた小池が「自分には将棋しかない」と気づいていたのは、間違いない。
そして、高校を中退して、その道に進む。
住み込みで働いていた上野の将棋センターでも、その強さは異次元だった。
「今すぐにでも、プロの名人に勝てる」。誰もがそう確信した。
しかし、酒と女に溺れ、挙句は勤務先で金を横領。師匠からは破門され、前科までついて、プロの道は閉ざされてしまう。
それでも、しかし。
かつて、メジャーな娯楽、国民的人気を博していたボクシングがそうであったように、将棋にも〝ドサ回り〟のマーケットがあった。
賭け将棋である。
それを生業とする者は真剣師と呼ばれて、実力には一目置かれていた。
表舞台の「プロ」がメジャーリーグなら、地下・裏の「真剣士」はマイナーリーグという表現は間違っている。
「プロ」が〝メジャー〟なら、トップの「真剣師」は〝ニグロリーグ〟という見立てが正鵠を射ているだろう。
いや、それよりも表の「柔道」、裏の「柔術」といった方がわかりやすいか。
新宿の将棋道場、賭け将棋。日本全国から駆けつける腕自慢の真剣師を相手に回して無敗街道を驀進した小池は「新宿の殺し屋」と呼ばれるようになる。
将棋なんて所詮はボードゲーム、殺し屋なんて大袈裟な、そう思った方もいるかもしれない。ところが、当時は〝メジャー〟と〝ニグロ〟にも交流があったのだ。
つまり、小池は「プロ殺し」だった。
小池が賭けられた賞金以上の金額を手にすることも珍しくなかった。窮地に追い込まれた相手に持ち駒を売っていたからだ。
「飛車角、五千円なり」。
将棋とは不思議な世界で、伝統と格式が重くのしかかっているように見えて、今もアベマが大スポンサーであるように、そんなことは一切ない。
つまり、誰が強いのか、それだけを追求する世界だ。
そして、雑誌「リベルタン」が、空前絶後のメガファイトを企画する。
「プロ殺し」にとっては最高の舞台が用意された。相手はなんと、大山康晴名人。
実はこの前夜、泥酔した小池は酒場の店員を殴り逮捕されていた。
熱狂的な将棋ファンだった都議会議員の計らいで釈放された小池は、大一番の舞台にひどい二日酔いの状態で現れる。
対局は…。
小池は角落ちのハンデ戦とはいえ、あろうことか名人に勝利してしまうのだ。
「あしたのジョー」に出てくるドサ周りの拳闘屋が、井上尚弥や井岡一翔、中谷潤人らに非公式戦でKO勝ちするようなものだ。
ちなみに、まだ小学生低学年だった藤井聡太は通っていた将棋教室でこのメガファイトの棋譜を見て感銘を受けたという。
真剣師の小池重明こそが最強の将棋打ちだ。
小池の、プロ棋士になる夢は再び火を灯した。
問答無用の実力が認められて、ついに日本将棋連盟は厳格な年齢制限などを取り払う〝超法規的措置〟でプロ編入の道を整えたのだ。
しかし、小池の〝身体検査〟は噂以上に真っ黒だった。
寸借詐欺に持ち逃げ、酔っ払っての暴行事件、人妻と恋に落ちるが挙句にフラれ…そんなことを何度も繰り返す小池を出入り禁止にしている賭け将棋の会場も少なくなかった。
地下将棋の世界でも、小池は問題児だったのだ。
実力至上がモットーのプロでも、試合となると借金取りやヤクザが詰めかける小池の素行は見逃すことが出来るレベルではなかった。
連盟は小池の希望を却下する。
ショックを受けた小池は自暴自棄になり、ますます放蕩で不摂生な生活に堕ちていった。肝硬変などを患い、心身ともにボロボロになった。
それでも、それなのに、賭け将棋では無敵だった。とにかく恐ろしいほど強かった。
自分の生涯をカウントダウンした小池は最後の大勝負を渇望する。
「死ぬのは、あの男と刺し違えてからだ」。
そして、またしてもリベルタン誌が超弩級のメガファイトをセットした。
その相手は、史上初の全冠独占王者。
1982年2月27日。対決の舞台は広尾羽澤ガーデン。格闘技の世界で例えるなら、マディソン・スクエア・ガーデンのようなものだ。
元王者は気高いプライドから角落ちで対局に臨んだが、勝敗そのものには大きな興味が注がれることはなかった。
史上初の全冠独占王者と言っても引退してから3年もの歳月が流れ、来月64歳になるご老体。
トッププロを軒並み轟沈させてきた35歳の〝プロ殺し〟は言い放った。
「年寄りをいじめるのは気の毒だ。ピンチになったら駒を売りますから遠慮なく言って下さい」。
風貌だけ見れば、小池が表のプロ棋士で、史上初の全冠独占王者は裏の真剣士にしか見えなかったが、実際は逆だ。
小学生だった羽生善治はアマ名人戦・都下予選で、小池の対局の記録係を担当した。羽生はのちに「生き様通りに将棋自体は型破りそのもの。しかし、とにかく強かったと鮮明に憶えている」と語っている。

その羽生が史上3人目の全冠独占王者になると、将棋年鑑のアンケート「指してみたい棋士」に、全ての棋士の中でも人気No.1に名前があがったのは升田幸三だった。
将棋のオールタイムPFPは、史上4人目の全冠独占王者・藤井聡太でも、3人目の羽生善治でもない。
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