冬のオリンピックでジャッジやルールの問題が目立って噴出するのは、今に始まったことではありません。

採点競技が多い大会の宿命です。

試合以前の選手選考でも「瀬古利彦」のソウル1988や、有森裕子のバルセロナ1992などのマラソン、最近でも、2枠の東海地区代表に東海大会で準優勝した聖隷クリストファー高校が選ばれなかったことが大きな波紋を巻き起こしました。

選考や不可解な採点への不満は、その基準が明確でないことだけでなく、主催者や有力選手への忖度が透けて見えたときに爆発します。

ボクシングにおけるカネロ・アルバレスの〝ラスベガス判定〟や〝タイの秤〟に、球技で目につく〝中東の笛〟。

北京の平野歩夢の採点や、高梨沙羅の失格はジャッジの能力不足や、検査方法がブレブレだったことから混乱を招きましたが、スピードスケートショートトラックなどでは〝中華採点〟だという非難が沸き起こっています。

ラスベガスのジャッジがカネロに買収されているとは思えませんし、〝中東の笛〟〝中華採点〟などの地元判定に明白な力が作用しているとは、状況証拠もない段階では考えたくありません。

どんな環境でも公正な判断を下すのがプロのジャッジですが、地元選手への大声援に代表される会場の空気を完全に遮断するのは非常に難しい作業です。

議論を呼ぶスコアが出てしまうのは採点競技の宿命、ボクシングでは採点だけでなくレフェリーストップのタイミングで異論反論が巻き起こることも珍しくありません。
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「平野歩夢の2回目」では、米国メディアが怒りもにじませた異議を爆発させたのに対して、日本の解説陣とメディアの反応は非常に穏やかなもので、「あの採点にも一理ある」というような説明までなされました。

第三国である米国があれほど強い声を上げてるんだから、当事国なら日本はもっと抗議の姿勢を明白にすべきだった、韓国のように、という意見もあります。

個人的には日本の性善説を大前提とした良い意味での寛容さ、悪い意味での曖昧さは嫌いではありません。

マニー・パッキャオは「判定になればあとは神の思し召し。どんな結果であろうと受け入れる」と語り、村田諒太はアッサン・エンダム第1戦で性善説に依拠した「そのスコアもありうる」という潔さを見せました。

パッキャオや村田の姿勢は素晴らしいと思います。

しかし、アジア的な寛容や曖昧が当たり前にまかり通るルールや採点基準、検査体制を野放しにして良いわけがありません。

まずありき、なのは公正明確なルールと採点基準、検査体制です。

平野の言葉が問題解決の道筋を正確に示してくれています。

「スノーボードは幅広くて、色んなスタイルあるからこその魅力、自由さが1つのかっこ良さとしてあるが、それはそれとして切り分けるべき」

「競技の部分では競技の高さ、グラブ、そういうものを(誰がジャッジしても同じように)計れるように整えていくべき。ジャッジの評価は、そういう意味でまだまだちゃんとしていない」。

「選手が最大のリスクを抱えてやっているものに対して、もっと明確でわかりやすい評価基準でジャッジするべき。他の競技のように新しいもの(ビデオやAIなど)の導入も考えていい。大会と大会ではないものきりわけた上で、しっかりするべき時代になってきたんだと思う」。

「競技が終わった瞬間に誰の目にも勝者がわかるのが常識」だという、スポーツの原点を「採点競技だから仕方がない」と諦めてはいけません。

競技を終えたフィギュア選手やボクサー、チームが、心配な顔でスコアが読み上げられたり、出場校発表の知らせを待って、結果が出た瞬間に喜びを爆発させたり、落胆に沈む、なんて不条理な光景はスポーツではありません。

〝採点競技〟でも競技が終わった瞬間に、選手も観客も勝者が誰なのかが確信できなければなりません。そうでなければ、どうしたらそこに辿り着けるのか、どうしたら近づけるのかを追求しなければなりません。