1970年代、依然としてプロボクシングの世界戦は野球と大相撲に並ぶか、それ以上のスポーツイベントであり続けますが、すでに地盤沈下は始まっていました。

ゴールデンタイムに毎日のように放送されていたボクシング番組は徐々に姿を消し、深夜の時間帯に追いやられてしまいます。

それでも、70年代を代表するファイター、輪島功一、大場政夫、具志堅用高は個性的な光を放っていました。

また、西城正三や沼田義明、小林弘、柴田国明、花形進らもスポーツファンなら誰もが知る名前でした。

しかし…。

70年代末になると、具志堅はメジャーだけど他の世界王者はそうとは言い切れない、というこれまで経験したことのない空気が漂い始めます。


③ZERO−THREE〜もはやメジャースポーツではない〜(1970~79)
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21世紀の亀田興毅は、具志堅用高に匹敵する視聴率を何度も叩き出しましたが、それをもって亀田を「国民的英雄」とみなす人は誰一人として絶対に存在しません。具志堅こそが、ボクサー最後の国民的英雄でした。


【メディア】テレビ 

【ボクシングヒーロー】輪島功一 大場政夫 具志堅用高

【国民的英雄】王貞治 具志堅用高

戦後、日本人が楽しむ観戦スポーツはプロ野球と相撲、そしてプロレスとボクシングでした。

プロ野球と大相撲は「巨人、大鵬、卵焼き」のフレーズが語るように、子どもにも人気のスポーツでした。

それでも、女性の社会進出は今以上に遅れていた時代、スポーツに熱狂するのは大人も子どもも男性が中心。

さらに、大相撲はもちろん、プロ野球もドメスティックな構造で、世界と戦う日本人を応援できる舞台はプロレスかボクシングしかない時代でした。

プロレスが〝八百長〟と世間にバレ、主要メディアからスポーツとして認知されなくなると、世界で戦う日本人を応援できるのはボクシングのリングだけになります。

1957年、読売ジャイアンツ入りした長嶋茂雄の契約金は史上最高の1800万円、年俸200万円でした。

一方、1940年代から1950年代前半に活躍した、白井義男のファイトマネーはノンタイトルで500万円前後、世界戦で1000万円前後だったと伝えられています。

ボクシングの世界チャンピオンには、憧れるのに十分の価値のあったのです。

■日本の世界挑戦■

70年代にはWBAからWBCが完全分離、世界一が二人いるのが当たり前の時代が幕開けました。

また、ジュニアフライ級やジュニアフェザー級などいわゆる水増し階級が続々と作られ、世界挑戦のチャンスは劇的に増えます。

それでも、ジュニアフライ級の具志堅は輪島の連続防衛記録6を更新した頃から、高い注目度を集め続けます。
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王の最高年俸は公表数字で8000万円。具志堅のファイトマネーは1試合4000万円でしたが、年4試合で1億2000万円。

1試合のファイトマネーがプロ野球トップの年俸を超えた原田ほどではないにせよ、最も稼ぐプロスポーツ選手がボクサーであった最後の時代でした。

また、当時は王貞治の本塁打世界記録と並んで、具志堅の記録がどこまで伸びるのか?が国民的関心事でした。

王はもちろん、具志堅にも国民栄誉賞第一号の受賞が検討されていたのです。

そして、具志堅がついに敗北、引退する80年代の足音が徐々に近づいて来ました。