誤解を恐れずにいうと「採点競技はスポーツではない」と考えています。
競技を終えて、審判の採点を聞いてから歓喜のガッツポーズをする。負けた選手が首をかしげて納得していない…。
そんなシーンは、陸上競技や水泳ではありえません。
先日、体操男子個人総合で金メダルを獲得した橋本大輝の採点に対して中国で批判が噴出、国際体操連盟が「採点は公正で正確だった」と異例の声明を出しました。
銀メダルになった中国の肖若騰との差はわずか0.4点。跳馬で橋本の着地がマットからはみ出たのに高得点だったことなどを挙げて「審判を買収した」「橋本は金メダルにふさわしくない」といった書き込みが今も止みません。
サーフィン競技で銀メダルに輝いた五十嵐カノアのSNSにも「審判から贈られたメダルに意味はない」といった誹謗中傷が殺到したと言います。
試合終了の瞬間に勝者が歓喜、敗者が落胆する…それがスポーツのあるべき姿です。
「誰が描いたのかによって、作品の芸術性が変わる」現代アートほどではないにしても、それに近い心理が勝敗を決める審判に働くとしたら、採点競技はスポーツではなく、純粋な芸術です。
誰の目にも明らかなアスリートの技術のみが勝敗を決する、それがスポーツです。
審判が勝敗を決める採点競技の結果を「その採点はおかしい」というのは自由です。
しかし、ピカソの絵画にも好き嫌いはあります。
ただ「ピカソの絵が嫌いだからピカソの存在も否定する」ような人は間違っています。芸術は「誰が書いたかによって芸術性や価値が変わる」のですから。
誤解・曲解する人もいるでしょうが、もう一度書きます。
採点競技はスポーツではありません。あれは、芸術です。
オリンピックで噴出する採点競技への批判の源泉は、多くの場合、ナショナリズムに起因します。
プロボクシングに向けられる採点への批判も、人気選手や地元選手に特別な便宜が図られたのではないかという疑惑から噴き出します。
プロボクシングで、いつも納得のできる公平な採点が行われていると感じている人は、おそらく皆無でしょう。
地元判定や人気者が有利に採点されるシーンを、ボクシングファンは幾度となく目にしてきました。
ジャッジが恣意的に間違った採点をする犯罪行為は論外ながら、「10-9」に囚われて「10-10」を付けることを怖がるジャッジや、明白なダウンもスリップ気味のダウンも同じ「10-8」など、プロボクシングの採点方法、慣習にも現実の試合からかけ離れた採点が生まれる可能性が内包しています。
また、ジャブを打って距離を取るボクシングを評価するネバダ州や、勇敢な攻勢を好むニューヨーク州ではそもそもの採点基準が違います(明文化されている採点基準はほとんど変わりませんが、現実の採点傾向には明らかな差異が認められます)。
採点基準や慣習を改善、統一することで、公正に近づけることが出来ますが、それが採点競技である限り、人間の主観が入り込む余地をゼロにすることは出来ません。
前置きが長くなりました。
赤井英和とブルース・カリーの採点です。
初回から両者の力量差が際立ったミスマッチ。赤井は6ラウンドにラッキーパンチでチャンスを掴むも、すぐに息切れして王者の反撃にダウン寸前。
第7ラウンド、フェザータッチのカリーのパンチに、赤井はへたりこむようにダウン。
なんとか立ち上がったものの、カリーが詰めて簡単に試合を終わらせます。
「7月7日7ラウンドでノックアウト」を宣言した赤井は、その通りに粉砕されてしまいました。

ついに強い相手と拳を交えた浪速のロッキーは、世界基準とは程遠い実力を晒してしまいました。
それでも、初回から勇敢に左右のパンチを振り回し続けた、精根尽き果てるまで戦い抜いた、見事な玉砕でした。
それなのに。
6ラウンドまでのジャッジペーパーが発表されると、嫌な思いが込み上げてきました。
ありえないことに、ジャッジの一人、犬飼庸充はフルマークで赤井を支持していたのです。
採点競技であるある限り、主観が入るのは仕方がありません。
それでも、いくらなんでも、それにしても、です。
その後も「井岡弘樹vsナパ・キャットワンチャイ」の不可解なゴングや、「マイク・タイソンvsバスター・ダグラス」でタイソン有利のスコアを付けた森田健、「鬼塚勝也vsタノムサク・シスボーベー」の理解しがたい判定…。
薬師寺保栄は、ウェイン・マッカラーに僅差の判定でタイトルを奪われた試合について「審判にはちゃんと根回ししたんか?って会長に聞いたら、名古屋人形をプレゼントしたって。そりゃあかんわって思いました」と明かしています。
こうした土壌が「一番最悪なのは変な判定で勝ちが転がり込むこと」と村田諒太に言わしめたのかもしれません。

今も昔も、日本のプロボクシングの世界戦略の基本は「マイナー階級」と「穴王者狙い」です。
そこでは、日本側のやりたい放題です。
もちろん、世界ランカー時代の竹原慎二が「軽量級では日本王者になったら簡単に世界と口にするけど、ミドル級では世界なんてどれだけ遠いのか実感すらない」と嘆いたように、欧米の人気階級には挑戦するチャンスは極端に少なく、莫大なコストもかかるという、もう一つの現実も横たわっています。
それを踏まえても、欧米で関心のない軽量級で好き放題する日本の体質と、階級と王者がいたずらに増殖する世界の不条理が、このスポーツへの興味を減退させ続けているのは間違いありません。
その意味で、プロボクシングもまたスポーツではありません。
競技を終えて、審判の採点を聞いてから歓喜のガッツポーズをする。負けた選手が首をかしげて納得していない…。
そんなシーンは、陸上競技や水泳ではありえません。
先日、体操男子個人総合で金メダルを獲得した橋本大輝の採点に対して中国で批判が噴出、国際体操連盟が「採点は公正で正確だった」と異例の声明を出しました。
銀メダルになった中国の肖若騰との差はわずか0.4点。跳馬で橋本の着地がマットからはみ出たのに高得点だったことなどを挙げて「審判を買収した」「橋本は金メダルにふさわしくない」といった書き込みが今も止みません。
サーフィン競技で銀メダルに輝いた五十嵐カノアのSNSにも「審判から贈られたメダルに意味はない」といった誹謗中傷が殺到したと言います。
試合終了の瞬間に勝者が歓喜、敗者が落胆する…それがスポーツのあるべき姿です。
「誰が描いたのかによって、作品の芸術性が変わる」現代アートほどではないにしても、それに近い心理が勝敗を決める審判に働くとしたら、採点競技はスポーツではなく、純粋な芸術です。
誰の目にも明らかなアスリートの技術のみが勝敗を決する、それがスポーツです。
審判が勝敗を決める採点競技の結果を「その採点はおかしい」というのは自由です。
しかし、ピカソの絵画にも好き嫌いはあります。
ただ「ピカソの絵が嫌いだからピカソの存在も否定する」ような人は間違っています。芸術は「誰が書いたかによって芸術性や価値が変わる」のですから。
誤解・曲解する人もいるでしょうが、もう一度書きます。
採点競技はスポーツではありません。あれは、芸術です。
オリンピックで噴出する採点競技への批判の源泉は、多くの場合、ナショナリズムに起因します。
プロボクシングに向けられる採点への批判も、人気選手や地元選手に特別な便宜が図られたのではないかという疑惑から噴き出します。
プロボクシングで、いつも納得のできる公平な採点が行われていると感じている人は、おそらく皆無でしょう。
地元判定や人気者が有利に採点されるシーンを、ボクシングファンは幾度となく目にしてきました。
ジャッジが恣意的に間違った採点をする犯罪行為は論外ながら、「10-9」に囚われて「10-10」を付けることを怖がるジャッジや、明白なダウンもスリップ気味のダウンも同じ「10-8」など、プロボクシングの採点方法、慣習にも現実の試合からかけ離れた採点が生まれる可能性が内包しています。
また、ジャブを打って距離を取るボクシングを評価するネバダ州や、勇敢な攻勢を好むニューヨーク州ではそもそもの採点基準が違います(明文化されている採点基準はほとんど変わりませんが、現実の採点傾向には明らかな差異が認められます)。
採点基準や慣習を改善、統一することで、公正に近づけることが出来ますが、それが採点競技である限り、人間の主観が入り込む余地をゼロにすることは出来ません。
前置きが長くなりました。
赤井英和とブルース・カリーの採点です。
初回から両者の力量差が際立ったミスマッチ。赤井は6ラウンドにラッキーパンチでチャンスを掴むも、すぐに息切れして王者の反撃にダウン寸前。
第7ラウンド、フェザータッチのカリーのパンチに、赤井はへたりこむようにダウン。
なんとか立ち上がったものの、カリーが詰めて簡単に試合を終わらせます。
「7月7日7ラウンドでノックアウト」を宣言した赤井は、その通りに粉砕されてしまいました。

ついに強い相手と拳を交えた浪速のロッキーは、世界基準とは程遠い実力を晒してしまいました。
それでも、初回から勇敢に左右のパンチを振り回し続けた、精根尽き果てるまで戦い抜いた、見事な玉砕でした。
それなのに。
6ラウンドまでのジャッジペーパーが発表されると、嫌な思いが込み上げてきました。
ありえないことに、ジャッジの一人、犬飼庸充はフルマークで赤井を支持していたのです。
採点競技であるある限り、主観が入るのは仕方がありません。
それでも、いくらなんでも、それにしても、です。
その後も「井岡弘樹vsナパ・キャットワンチャイ」の不可解なゴングや、「マイク・タイソンvsバスター・ダグラス」でタイソン有利のスコアを付けた森田健、「鬼塚勝也vsタノムサク・シスボーベー」の理解しがたい判定…。
薬師寺保栄は、ウェイン・マッカラーに僅差の判定でタイトルを奪われた試合について「審判にはちゃんと根回ししたんか?って会長に聞いたら、名古屋人形をプレゼントしたって。そりゃあかんわって思いました」と明かしています。
こうした土壌が「一番最悪なのは変な判定で勝ちが転がり込むこと」と村田諒太に言わしめたのかもしれません。

当時は「渡嘉敷勝男vsルペ・マデラ」が疑惑の判定と、理不尽なダイレクトリマッチを繰り返し、プロボクシングの信用が瓦解した頃です。
「あからさまな地元判定」は少なくなっているものの、「欧米で人気のない階級」「王者よりも挑戦者の方が富裕」「世界戦、特に挑戦はまず100%日本開催」…それが井上尚弥の時代まで続く日本ボクシングの現実です。
「あからさまな地元判定」は少なくなっているものの、「欧米で人気のない階級」「王者よりも挑戦者の方が富裕」「世界戦、特に挑戦はまず100%日本開催」…それが井上尚弥の時代まで続く日本ボクシングの現実です。
今も昔も、日本のプロボクシングの世界戦略の基本は「マイナー階級」と「穴王者狙い」です。
そこでは、日本側のやりたい放題です。
もちろん、世界ランカー時代の竹原慎二が「軽量級では日本王者になったら簡単に世界と口にするけど、ミドル級では世界なんてどれだけ遠いのか実感すらない」と嘆いたように、欧米の人気階級には挑戦するチャンスは極端に少なく、莫大なコストもかかるという、もう一つの現実も横たわっています。
それを踏まえても、欧米で関心のない軽量級で好き放題する日本の体質と、階級と王者がいたずらに増殖する世界の不条理が、このスポーツへの興味を減退させ続けているのは間違いありません。
その意味で、プロボクシングもまたスポーツではありません。
もしかしたら芸術ですら、ないのかもしれません…。


コメント
コメント一覧 (3)
なんですが、橋本の金メダルは、少し違和感が、ありました。
結構明確なミスがあり、中国の選手も、不満の表情でした。
地元の利のといえばそれまでなんですが、
ボクシングも以前Jr.フライ、Jr.バンタムの世界挑戦がおおかった。
穴狙い。
目的が、強い、世界に通用する選手を育てているのでなく、
あくまで、ビジネス金儲け。
選手は金儲けの道具。
フシ穴の眼
が
しました
ボクシングやフィギュアスケートや体操やダンスのような審査員に主観的にスコアを決定させられてしまう競技もありますね
ただ、野球も昔は王貞治だとストライクがボールになったり、サッカーラグビーのペナルティも曖昧なものがあったりして
主観的な採点はなくても、人間がいる以上主観的につけられる判定はあると思います
フシ穴の眼
が
しました
フシ穴の眼
が
しました