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リング誌9月号は、またまたマニー・パッキャオ大特集。

電子版の良さは速さだけではなく、動画も見れることです。マルコ・アントニオ・バレラとの初戦、360度完全敵地のアラモドームの決闘を電車の中で見てると、込み上げてくるものがありました。

もう何度も見ていて、1秒後にどうなるかもきっちり記憶している試合だというのに。

とにかく、パックマニアとしては嬉しい限りです。

リング誌のダグ・フィッシャー編集長の記事からいきましょうか。
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Painting by Jun Aquino
PACQUIAO STILL DARES TO BE GREAT

パッキャオが偉大な勇気の火を消すことはない。

2001年6月23日、衝撃的なやり方で米国上陸を果たしたマニー・パッキャオ。

本誌2020年11月号の「フィリピンのアイコン」特集で取り上げきれなかったこと〝あれから20年〟以上にわたって触れられなかったことを、どう書いていけば良いのだろうか。

私はその夜、ラスベガスのMGMグランドのプレスと同じ列の席で眩しいリングを見上げていた。

元WBCフライ級王者パッキャオはエンリケ・サンチェスの代役として、オスカー・デ・ラ・ホーヤが5階級制覇を賭けてハビエル・カスティリェホに挑むメガファイトの前座に急遽抜擢されたのだ。

前座とはいえHBOのPPV放映枠で生中継される大一番。しかし、IBFジュニアフェザー級王者リーロ・レジャバの評価は非常に高く、わずか2週間前のオファーを二つ返事で快諾した無名の挑戦者には勝ち目がないと誰もが決めてかかっていた。

私はパッキャオが6ラウンドに一方的な形で試合を終わらせて大番狂わせを起こしたことにショックは受けなかった。

リング誌が野望に燃えるフィリピン人青年のことを報道し続けてきたのを読んでいたから、何かが起こる予感はあった。

以前、Wild Card Boxing Clubで彼がトレーニングしているのを見たことがあったからだ。

才能に溢れ、ハングリーなヤング・パッキャオはボクサーに必要な資質を技術以外はすべて持ち合わせていた。

サンチェスのボクシングとは真逆の暴風雨のようなサウスポーが、階級最強候補の南アフリカ人にとって深刻な問題になる可能性は十分考えられたのだ。

多くの人は、後になってレジャバの不運に同情しただろうが、私は番狂わせとは思わなかった。

とにかく素晴らしい試合だった。

そんな私でも、当時は彼が何者であるかを正確にはわかっていなかった。

軽量級にもかかわらず、パッキャオは好戦的で人を惹きつけるファイターだった。特にテレビで見るとその面白さは飛び抜けていた。

しかし、まだ荒削りでパンチョ・ビラやセフェリノ・ガルシア、フラッシュ・エロルデらが紡いできた偉大な殿堂入りボクサーとは比べようもなく、ルイシト・エスピノサやジェリー・ペニャロサらの強豪王者の域にも達していないと、私は考えていたのだ。

とにかくテレビ映えするファイター。私のパッキャオの第一印象はそれだけだった。

そして、122ポンド王者になったパッキャオはアガピト・サンチェスとの初防衛戦のリングに上がる。

2001年11月10日にサンフランシスコで行われたHBOのボクシング看板番組「チャンピオンシップ・ボクシング」で、フロイド・メイウェザーJr.との共演だった。

レジャバ戦の大番狂わせを予想した人は私だけだけではなかっただろうが、あの夜、パッキャオとメイウェザーがあそこまで巨大な存在になることを予感できた人は、絶対にいなかっただろう。
 
サンチェスは、南カリフォルニアのザ・フォーラムで人気のドミニカ人。ローブローやヘッドバットを駆使して、パッキャオを血だるまにして6ラウンドのテクニカル・ドローに持ち込んだ。

パッキャオの限界と技術的欠陥が、欲求不満が募る醜い反則だらけの試合で晒け出された。しかし、彼が鋼鉄の勇気と不屈の勝負根性を持っていることもまた、証明された。

まだ「グレート」には程遠く「エリート」ですらなく、それどころか当時のジュニアフェザー級最強ですらなかったかもしれない。

しかし、彼にはファイターとして一番重要な才能が、全身に染み付いていたあとひと磨きで世界を照らす輝きを放つ原石だった。
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パッキャオは自ら進んで危険な橋を渡った。

誰の目にも自分を地獄に突き落とす愚かな行為にしか見えなかったが、彼は橋の向こう側に何があるのかをよく知っていた。

それでも、そんなやりかたで20年後の今も、パッキャオが旅を続けていることは到底信じられない。

キース・サーマンを下してから2年後の8月21日、パッキャオはもう一人の無敗のウェルター級、団体統一王者エロール・スペンスJr.と対戦する。

チューンナップなし、2年あまりのブランクを抱えて。
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来年の大統領戦で当選を目指す42歳の上院議員が、リング誌ウェルター級1位評価のスペンスと激突するなんて、常識的に考えると狂気の沙汰だ。

しかし、この狂気こそが誰もがマニーを愛する理由なのだ。

今の時代、多くのファイターは自分の価値を守るために大きなリスクが孕む戦いは好まないが、パッキャオは誰も渡ろうとしない危険な賭けに身を投じ、何度も向こう岸に渡って見せた。

サンチェスに苦戦したわずか2年後には、フェザー級に階級を上げてリング誌王者マルコ・アントニオ・バレラに挑戦する。

パッキャオはスーパースターのメキシカンを11ラウンドで攻め堕とすと、その直後にWBA/IBF統一王者のフアン・マヌエル・マルケスに挑んだ。

ほとんどのボクシング関係者は、2004年5月のマルケス戦が危険なサイコロを投げることになると気づいていた。

フレディ・ローチも怖いもの知らずのパッキャオが、マルケスのカウンタースタイルと驚異のタフネスに相性が悪いかもしれないと懸念していた。

メキシコシティ出身のDinamita=ダイナマイトがオープニングラウンドで3度のダウンから立ち上がった後、ローチが心配していた通りの展開になった。

この試合が三者三様のドロー(バート・クレメンツが初回を10−7ではなく10-8と誤審しなければパッキャオの勝利だった)に終わったことは、私にとって大きな驚きではなかった。

ザ・フォーラムで繰り広げられるボクシングの番組を取材していた私は、マルケスの実力をよく知っていたからだ。

Naseem Hamed, who avoided the master technician. 

マルケスとの対戦からあからさまに逃亡したナシーム・ハメドは論外にしても、メキシコで最も人気のあったエリック・モラレスですらマルケスとの試合には積極的ではなかった。バレラがマルケスの執拗なオファーに応じたのは2007年になってからのことだった。

PFPキングの一人と考えられていたバレラと、誰もが禁忌していたマルケスと連戦するなんて、トーマス・ハーンズが1984年にロベルト・デュランを撃墜した直後に、マイク・マッカラムを選ぶようなものだ。

ローチの箴言を無視したパッキャオは、危険な選択に迷いはなかった。

そんなファイターは、パッキャオ以外にはどこを探しても見当たらない。

ヒットマンや1980年代にミドル級を盛り上げた王者たちですら、ボディスナッチャーの姿は見えないふりをしていた。

パッキャオは用意された相手を断ることは一度もなかった。


2005年から2006年にかけても、パッキャオは危険な橋を好んで渡り続ける。

破竹の快進撃はモラレスに止められてしまうが、その後2度も明白な形でリベンジを果たした。

マルケス、フロイド・メイウェザー、ティム・ブラッドリーのような誰にとっても解き難いロジックを習得したボクサーとも戦い続けた。

スター選手を求めて闇雲に階級を上げるパッキャオは、どこかで必ず破滅すると思われていた。


「だから言わんこっちゃない」。誰もがそのセリフを準備してパッキャオの試合を楽しんだ。そして、そのセリフはいつも先送りにされたのだ。


パッキャオは橋の向こう側に何があるのかを知っていたのだろう。

危険な選択をクリアし続けたマニーは国民的英雄となり、世界で最も高額な報酬を得るアスリートの一人に登り詰めた。

パッキャオは歴史的なグレートの仲間入りまで果たした。

2008年から2009年にかけての5連勝で、リング誌の「ファイター・オブ・ザ・イヤー」を2年連続で受賞、全米ボクシング記者協会(BWAA)の「ファイター・オブ・ザ・ディケイド」にも選ばれた。

パッキャオはジュニアライト級最強のマルケスを下し、ライト級のデビッド・ディアスを粉砕、時代を代表する英雄オスカー・デ・ラ・ホーヤを引退させ、英国の星リッキー・ハットンを劇的に沈め、ミゲール・コットを切り刻み最終ラウンドでTKO勝利。

たった24ヶ月で、マルケスからリング誌/WBCジュニアライト級、ディアスからWBCライト級、ハットンからリング誌ジュニアウェルター級、コットからはWBOウェルター級、4つの階級のストラップを強奪したのだ。

ボクシングファンにとって、パッキャオを好きにならないことは、拷問に等しかった。

コット戦の後、HBOの歴史家ラリー・マーチャントはパッキャオをヘンリー・アームストロングになぞらえた。

1937年から1938年の2年間の眼を瞠る活躍を見れば、アームストロングが何者かがよくわかる。

アームストロングは、この24ヵ月間にフェザー級、ウェルター級、ライト級の3階級を制覇、なんと41勝(36KO)無敗という驚天動地の記録を打ち建てたのだ。

問題はその対戦相手だ。

バーニー・ロスとルー・アンバースの147ポンドと135ポンドのタイトルを連破し、殿堂入りしたベニー・バス、チャルキー・ライト、ベイビー・アリズメンディ、ミドル級タイトルホルダーとなるセフェリノ・ガルシアにも勝利(タイトルマッチではドロー)。

世界王者が8人しかいない時代に「誰に勝ったのか」という現代的な問いかけに、満点回答を叩き出したのがアームストロングだった。

リングの上で戦慄のメロディーを大音響で奏でたヘンリー・メロディー・ジャクソン(アームストロングの本名)を、シュガー・レイ・ロビンソンやモハメド・アリよりも評価する専門家までいる。

その数年後、1940年10月にプロデビューしたシュガー・レイ・ロビンソンは、1941年から1942年までのプロキャリアの最初の2年間で奇跡的な連勝を飾り、アームストロングを見習うことに全身全霊を捧げた。

若きロビンソンは34勝0敗(24KO)の記録を残し、現役ライト級チャンピオンのサミー・アンゴットに2回の判定勝ち、元ウェルター級チャンピオンのフリッツィー・ジビックに判定勝ちと10ラウンドTKO、後のウェルター級チャンピオンのマーティ・サーボに2度の判定勝ち、後のミドル級チャンピオンのジェイク・ラモッタに判定勝ち。

当時は1団体8階級。これはフランチャイズやダイアモンド、スーパーなど言い訳がましい王者など存在が許されなかった時代の話だ。 

私が知る時代の〝シュガー・レイ〟もまた、わずか24ヵ月間で殿堂入りの条件を満たした特別なファイターの一人だ。

1979年9月から1981年9月までの8試合で、レイ・レナードは無敗のウィルフレッド・ベニテス(38勝0敗1分)からリング誌/WBCのウェルター級タイトルを奪取、偉大なロベルト・デュランになすりつけられた初黒星は見事にリベンジ、ハーンズとの147ポンドのThe Undisputed Championを賭けた歴史的な名勝負にも勝利を収めた。

また、154ポンド級の現役チャンピオンであるアユブ・カルレを9ラウンドで屠り、今の4団体時代なら王者になってるであろうウェルター級のトップコンテンダーであるアンディ・プライス(1ラウンド)、元タイトル挑戦者のデイビー・グリーンも圧倒している。

しかし、レナードはプロ40戦目にはかつての輝きを失っていた。
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だというのに、1995年1月にプロに転向したパッキャオは、プロ71戦目42歳にしていまだに世界のトップ戦線に踏みとどまっている。

いや、世界のトップを牽引していると表現しても間違いではないかもしれない。

2008年から2009年にかけて築いた、誰も信じることができないレガシーは手がつけられないほど巨大なものになっている。


42歳の上院議員が「楽して稼ぎたい」と安易な橋を選んでも、彼を咎める人など一人もいない。

メイウェザーの〝ビジネス教科書〟を参考にして、YouTubeの有名人と戦うこともできた。ローガン・ポールの父親と戦えば、PPVは大成功していたはずだった。

しかし、マニーはリアルの戦い、どこまで崖っ淵に近づけるのかにしか興味がないのだ。

はるかに楽なやり方で、もっと大きな報酬を稼ぐ方法があるというのに、どうして彼はわざわざ危険な橋を好んで渡ろうとするのか?

私たちには、彼の思考回路が全く理解できない。



しかし、マニーだけは知っているのだ。

橋の向こう側に何があるのかを。