世界のスポーツ選手長者番付、The World’s Highest-Paid Athletes は米国ボクサーの頂点がそのままスライドする19世紀末から続く「ボクサーの時代」から始まりました。

1990年の第1回は4人のボクサー、第2回は5人のボクサーがトップテンを席捲。その頂点はマイク・タイソンからイベンダー・ホリフィールドへとリレーされました。

フォーブス誌がこの企画を立ち上げたのは「プロアスリートが手にする報酬が従前の試合報酬だけでなく巨額のスポンサー収入(endosement)によって大きく様変わりしている」ことが一つの契機でした。

では「大きく様変わりする1990年」よりも以前のプロアスリートの報酬はどうだったのでしょうか?

1979年の世界最高報酬のアスリートはミネソタ・ツインズの内野手ロッド・カルーとされています。

パナマ人のグレートが放った通算3053安打は2017年まで、米国出身以外の外国人最多記録でした。この記録を抜いたのが我らがイチローです。

1977-78年、2シーズン連続で首位打者を獲ったカルーは79年に1対4の大型トレードでカリフォルニア・エンゼルスに移籍、このとき契約が交わされた年俸は〝わずか〟80万ドル。当時は1ドル200円時代、カルーが手にしたのはは円環算で1億6000万円でした。

同年、王貞治の年俸は8140万円。しかし、これは他の選手の年俸を抑えるための「表向きの数字」で実際にはもっと多くの金額を獲得していましたから(79-80年は競輪の中野浩一が王の年俸を超える1億円前後の賞金を稼ぎ出していましたが現実には王の方が上でした)、世界と日本の差は近似していました。
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さらに、世界ではモハメド・アリが1971年のジョー・フレージャー戦で250万ドル(当時の為替は固定相場=1ドル360円)、74年のジョージ・フォアマン戦で500万ドル(当時の為替レートで30億円)を手にしており、カルーの80万ドルは野球選手としては破格でも、米国ヘビー級の高峰から見ると〝下界〟の出来事に過ぎませんでした。

当時は、ボクサーは別格扱い。この1979年の実質世界最高報酬は、世界戦3試合をこなしたラリー・ホームズだったはずです。

この「ボクサーは別格」は80年代のマネーを支配したシュガー・レイ・レナードらが長者番付から外されていることからも明らかです。

ちなみに、レナードとマービン・ハグラーが「ファイトマネー+クローズドサーキット歩合」で二人合わせて5000万ドルを稼ぎ出した1987年の〝表向き〟のアスリートNo.1長者はNBAのパトリック・ユーイングでその金額は〝わずか〟275万ドルでした。

フォーブス誌のThe World’s Highest-Paid Athletesは「ボクサーは別格」という縛りを外したという性格もあったのです。

1990年、マイク・タイソンが2860万ドルを記録してThe World’s Highest-Paid Athletesの柿を落とした前の年のアスリート長者番付トップはユーイングで〝たったの〟375万ドルでした。

前置きが長くなりました。

ボクサーが別格扱いに高額報酬を得ることが当たり前だった「100年帝国」。

The World’s Highest-Paid Athletesのわずか3年目、1992年に帝国が瓦解するお話に戻します…。