スポーツに筋書きはありません。

しかし、リングの上ではボクシングの神様が気まぐれな叙事詩を紡ぐことが、ときにあります。

偉大な伝説が最期の黄昏を迎えるとき、その血の匂いを嗅ぎつけた新進気鋭の若者をリングに送り込むのです。

伝説のファイターが物語を終わらせることなど許すはずはなく、一方で若き才能は英雄のトーチを奪い取ることを信じてやみません。

偉大な伝説にとって、その闘いは遅すぎたのか?

それとも若き才能にとって、その闘いは早すぎたのか?

井上尚弥vsノニト・ドネアのケースは、誰もが前者と考えている試合です。「井上と戦うにはドネアは年を取り過ぎた」と。

しかし、神が配剤したマッチメイクの結果を人間ごときが正確に予測することなど出来るわけもありません。

Too Soon or Too  Late?



早すぎたのか、それとも遅すぎたのか。

多くのケースでオッズも予想も若者に偏向してきた激闘の数々ですが、伝説が最後のレガシーを築くことも珍しくありませんでした。

人知を超えたドラマをいくつも生み出して来た「伝説vs若き才能」。


ボクシングにおいて最も感動的なリングの一つ、Too Soon or Too  Late? の傑作を振り返り、井上vsドネアを占います。




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❶ロッキー・マルシアノvsジョー・ルイス

1951年10月26日。ニューヨーク、マジソン・スクエア・ガーデンで行われたヘビー級ノンタイトル10回戦。 ルイスにとって「遅すぎた」決戦でした。

このときマルシアノは37戦全勝32KOの28歳。一方のルイスは66勝52KO2敗の37歳。共に強打を誇る新鋭と伝説…まさに井上vsドネアのヘビー級バージョンです。

年齢的にも、井上(26歳)とドネア(36歳:11月16日で37歳)の決戦が予定通りに今秋行われるとすると非常に近似した数字になります。

ルイスは言わずと知れたヘビー級史上最強の名王者。

マックス・シュメリングとの〝民主主義vs全体主義〟の代理戦争に圧勝したルイスは1949年に王者のまま引退していましたが、税金の支払いに滞りカネのためにリングに復帰。

「税金支払いのため?」…陸軍に所属していたルイスはリングの中でも外でも米国のために戦った国民的英雄です。一生、カネに困らないよう国が保障すべきでしょう。

試合は若きThe Brockton Blockbuster(ブロックトンの高性能爆弾)がThe Brown Bomber(褐色の爆撃機)を完膚なきままに叩きのめし、撃ち落とします。

そう、8ラウンドにはリングの外に叩き出す痛烈なダウンを奪い、文字どおりに撃ち落としたのです。

貧しいイタリア移民の子供、ロッコ・マルケジャーノはあの偉大なルイスからスーパースターのトーチを引く継ぐロッキー・マルシアノに昇華したのです。

大きな勝利を手に入れたマルシアノはしかし、ポスト会見で人目をはばからず泣いてしまいます。

「ボクシングをやってる人間でジョー・ルイスを殴りたいやつなんているわけがない。尊敬しているルイスを 殴ってしまって申し訳ない」と涙を流して謝罪したのです。

スポーツの世界において新旧交代の儀式が常にドラマティックであるのは常識ですが、残酷なボクシングの世界ではその明暗の色彩が一層鮮明になります。

ルイスはこの敗北で引退、2度とリングに戻ることはありませんでしたが「もし負けたのがマルシアノでなければ、リングにしがみついたかもしれない」と回想しています。

井上もドネアに言わせなければなりません。「何の後悔もない。あとは井上に託す」と。 

 世代交代の舞台で引き起こされるドラマの全てが盛り込まれた傑作でした。




❷ニノ・ベンベヌチvsカルロス・モンソン

1970年11月7日、ローマ、スポーツパレス。

32歳の王者ベンベヌチはエミール・グリフィスから奪ったUndisuputed Championの座をかけた5度目の防衛戦。

28歳の挑戦者は67勝3敗9分、79試合のうちアルゼンチンで75試合、ブラジルで4試合と南米から一歩も外に出ず、強豪との対戦もありませんでした。

敵地に乗り込んできた無名のアルゼンティーナを相手に、円熟期を迎えていたベンベヌチの勝利は間違いないと考えられていました。

しかし「グリフィスやディック・タイガーと激闘を繰り広げてきたベンベヌチの中盤ストップ勝ち」という大方の予想は、開始ゴング直後から裏切られてしまいます。

モンソンの左ジャブからストレート、フックと右の強打につなげる基本的なコンビネーションに目を見張るようなスピードはありません。

しかし、見た者にしかわからない恐るべき迫力がどのパンチにも込められていました。

地元の英雄が楽勝するシーンを観に来たローマっ子たちは「とんでもない相手を挑戦者に選んでしまった」と戦慄します。

ナタで心身を切り落とされるような劣勢に耐えていたベンベヌチは12ラウンド、コーナーにうずくまるようにダウン。懸命に決壊を堪えてきたプライドのダムが崩れ落ちた瞬間でした。

スピード、パワー、テクニック、経験、戦略…アスリートの強さを形成する要素はいくつもありますがモンソンのそれは言葉では説明出来なくとも「見ればわかる」という至極明快なもので、ジョー小泉の「形容詞なき強さ」という表現がぴったりでした。

当時はすでに団体分裂時代が幕を開けていました。しかし、モンソンの強さの前には他の王者など必要でないことには、腐敗承認団体でも頷くしかありませんでした。

伝統的に統一への磁場が強いミドル級、その最初のマグネットこそがモンソンでした。

カルロス・モンソン、当時28歳は遅咲きの伝説でしたが34歳まで戦い続け14度連続防衛のレコードと「リングの上でやり残したことはない」と語ってグローブを吊るします。

井上とモンソン。全く対極の強さを持つ2人ですが、モンソンが発散する伝説のオーラを、今の井上はまだ手に入れていません。

井上が、強豪やタイトルを吸い寄せる強力な磁場とオーラをまとうのはこれからです。




❸シュガー・レイ・レナードvsロベルト・デュラン

1980年6月20日、WBC世界ウェルター級タイトルマッチ。

レナードは五輪金メダル、鳴り物入りでプロ入り。予定通りに世界ウェルター級王者になった無敗の24歳。

一方のデュランは二階級下のライト級で闘い続けて来た29歳。当時の戦績はレナードが27戦全勝18KO、デュランが72戦71勝56KO1敗。 
後になって思い返すと大番狂わせじゃないと誰もが気づきますが、当時はデュランは歴戦の勇士とはいえ経年劣化も目立ち、何より相手が二階級上のスーパースター、レナードでは勝機はないと見られていました。

それなのに…レナードにとって「早すぎた」試合になってしまいました。

しかも舞台はモントリオール。レナードが米国に金メダルを持ち帰った五輪の地です。

全てがレナード勝利のために整えられていました…そのはずでした。

全米をサーキットするプロモーショナル・ツアーでも破天荒なデュランは「レナードはチキンだから試合が始まれば足を使って、二階級下の俺から逃げ回ることしか出来ないだろう」と侮辱を続け、レナードは「弱い犬ほどよく吠える」と応酬。

リングに上がる前に、24歳の金メダリストは狡猾なパナマ人の〝インファイト〟への誘いに乗ってしまっていたのです。

マービン・ハグラーでさえ近寄らなかった〝デュランの距離〟に、レナードはまんまと吸い込まれていったのです。

井上は当時のレナードよりも2つ年上、デュランとも3つしか年齢が違いません。

あの試合はプライムタイムのデュランと、まだその時期を迎えていないレナードの激突でした。

そう。結果論ですが、レナードにとってデュランは早過ぎたのです。

来るべき26歳の井上vs36歳のドネアは、どんなに贔屓目に見てもドネアにとって「遅すぎた」一戦です。

しかし、約40年前も多くの専門家やファンが当たり前に「デュランに勝ち目はない」と見ていた事実は無視できません。



 ❹マイク・タイソンvsマイケル・スピンクス

1988年6月27日。アトランティックシティ、コンベンションホール。

タイソン21歳、スピンクス31歳。

「無敗のヘビー級王者同士の完全統一戦」という看板には偽りあり。

既にタイソンは三団体を完全統一。

ラリー・ホームズを倒したスピンクスはリネアル・チャンピオン(正当な王位)とされていましたが、人気と評価の両面でタイソンは圧倒的な存在になっていました。

新旧交代は、既に完了した状態で行われたメガファイトです。

本来ならヘビー級統一トーナメントの決勝戦にセットされていた試合ですが、打算に走ったスピンクスはゲイリー・クーニー戦を選んで離脱、約1年遅れで実現した〝決勝〟でした。

今なら「統一トーナメント」というとWBSSが思い起こされますが、30年前のヘビー級トーナメントとはその色彩が全く違います。

WBSSが不人気階級に目をつけて開催した地味なトーナメント(ファーストシーズンは米国では観ることが出来なかった)であるのに対して、このメガイベントは〝まずタイソンありき〟の規格外のトーナメントでした。

英国ボクシングマンスリー誌が井上を「ミニタイソン」と表現したように、当時のタイソンはヘビー級のトップ選手を根こそぎ打ち倒しました。

スピンクス戦では1700万ドル(当時のレートで22億円)とボクシング史上最高額の報酬を手にしたタイソンは世界最高のスポーツヒーローになったのです。
IMG_2778ボクシングファンからも唾棄されていたドナルド・トランプがまさか大統領になっちまうとは…!ボクシングだけじゃなく米国もまた魑魅魍魎です。


1986年11月22日、最初の王座を奪ったトレバー・バービック戦からの10試合を全勝8KOと無敵を誇ったアイアン・マイクでしたが冷静な専門家からは「ヘビー級のレベルが最も低い時代に弱い相手ばかりと戦っている」という批判も拭えませんでした。

1990年2月11日、東京ドームでタイソンは沈みます。3年2ヶ月。鮮烈な印象に比べてあまりに短い在位でした。

その後、専門家が認めた〝本物の強豪〟イベンダー・ホリフィールドとレノックス・ルイスには大敗。


レベルの低い相手に番狂わせを起こされることはあっても、強い相手にはついに1人も勝てなかったまま、逃げ出すようにキャリアを閉じました。

モハメド・アリが亡くなったとき、リング誌が企画した「今、生きている選手のPFP10傑」でもタイソンは一票も得ることなく落選。

それに違和感をもった人は極端なタイソン信者だけでしょう。

「弱い相手には滅法強いが、強い相手には滅法弱い」。そのボクシングは低評価に甘んじていますが、タイソンがヘビー級と米国ボクシングが陥っていたであろう厳冬時代を救う、短く熱い夏をもたらしてくれたことは事実です。

「誰に勝ったのか?」。それを問われて言葉に詰まるのは井上も同じです。

しかし、井上はタイソンのようにイヤイヤながらボクシングをしているのではありません。強敵が出現したとき、タイソンは試合中や会見で相手に噛み付いてパニックを起こしましたが、井上にはそんなチキン性は微塵もないはずです。

ただ、悲しいかな、バンタムは層が薄くタレントかいません。

世界的な注目度も低いクラスから飛び出して、評価の高いビッグネームとの激闘を期待したいのですが…。

井上がパッキャオのような「とにかくビッグネーム、カネになる試合」を希求する英雄豪傑タイプではなく、リカルド・ロペスのように「自分の実力が最も傑出できる階級」にこだわる職人タイプだというのは、ファンもわかるのですが…。


❺シリモンコン・ナコントンパークビュー vs 辰吉丈一郎

1997年11月22日、大阪城ホール。

不吉な旋律を奏でる入場曲「死亡遊戯」。日本中のボクシングファンが、このメロディを耳にするのはこれが最後になるだろうと悲壮な覚悟で迎えたビッグファイト。

老雄が、まさかのノックアウト勝利。 

勝利に酔う控え室を映すテレビカメラに1人の若者が現れます。

辰吉の両手を握って「おめでとうございます!」と祝福したのは、なんとイチロー。

その年の5月、シーズン中にもかかわらず辰吉がWBCジュニアフェザー級王者ダニエル・サラゴサに挑戦した会場にも稀代のヒットメーカーは駆けつけていました。

イチローは大の辰吉ファンだったのです。

このときシリモンコンは無敗の20歳。辰吉はまだ27歳、今の井上よりもわずか1歳年上というだけの若さでした。

それまで一度もタイを出たことのないシリモンコンにとって、大阪城ホールを埋め尽くした大観衆と、初回のグローブタッチも拒む辰吉から照射される殺気に耐える術はありませんでした。

地元の英雄・27歳のホームに乗り込むのは、シリモンコンにとってあまりにも「早すぎた」のでした。
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専門誌はこぞって増刊号を出してカリスマの復活劇を報じました。


日本の枠に収まらない才能。キャリアの早い段階で、最大級の評価を得ていたという一点で井上と辰吉は共通点しています。

しかし、無敗のまま3階級制覇を果たしリング誌PFP4位に駆け上がった井上に対して辰吉はライズ&フォールを繰り返しながらリングに浪花節の世界を構築します。

辰吉はその歌をまだ歌いきっていませんが、現時点でシリモンコン戦がクライマックス、サビであることに異論はないでしょう。

リチャード・スティールがストップしたカリスマの復活劇はしかし、感動だけを残すものにはなりませんでした。

リング上のインタビューで辰吉の口から出た最初の言葉は「スライマン会長に感謝したい。何度もチャンスをくれた」。

腐敗承認団体の生業は承認料収入です。

承認団体にとって、欧米で人気のない軽量級はアジアや中南米の貧困国の選手が覇権を争うビジネスとして魅力のないクラスです。

例外は日本。その日本でもカリスマ的存在の辰吉はWBCにとって重要な収入源でした。カナストータ(国際ボクシング名誉の殿堂)からはノミネートすらされない辰吉ですが、2011年にはWBC殿堂の打診を受けています(「俺、まだ現役やから」と拒否)。

井上にはボクシングの闇を振り払うような、キャリアハイの作品を仕上げて欲しいものです!