気ままな独身時代。年に数回は後楽園ホールに通ってボクシング観戦していました。

当時は、すでにテレビのボクシングは世界戦を除くと深夜に追いやられていましたが、注目選手の試合は日本タイトルでも早々にチケットが売り切れ、大きな注目を集めることも珍しくはありませんでした。

お気に入りの選手の一人、ピューマ渡久地もそんなスター選手の一人でした。

辰吉丈一郎と鬼塚勝也と並ぶ「平成三羽ガラス」。

ファイティング原田、海老原博幸、青木勝利の元祖・三羽ガラスがプライドを賭けた総当たり戦を繰り広げたのに対して「平成」はたったの1試合も交わることがありませんでした。

昨年末の「村田諒太vsゲンナディ・ゴロフキン」のように、絶対見たい試合は前売り券を買うことにしていましたが、ピューマの試合でも一度だけ前売り券を購入してワワワクしながら試合の日を待ったことを覚えています。

どちらの試合も、その理由は全く違うにせよ、消滅してしまいましたが…。 

1988年のデビューから11連続KO、12連勝をマークして日本フライ級王座を2度防衛した渡久地は、これぞファイターというスタイルでボクシングファンのハートを鷲掴みにします。

そして、1991年のチャンピオンカーニバル、大勝負がセットされます。

「世界王者よりもはるかに強い」と恐れられたチャコフ・ユーリー(ユーリ・アルバチャコフ)との日本タイトル3度目の防衛戦。

プロでわずか6戦の経験しかないものの、元世界王者を問題なく沈めるなどユーリの強さは際立っていました。

ユーリがその凶悪な右ストレートを打ち下ろした1990年代は、欧米のメディアがアジアと軽量級に今以上に偏見を持っていた時代でしたが、それでもリング誌がPFP9位に数えるなど出色の世界評価も得ていました。

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1991年3月21日、後楽園ホール。幻の日本フライ級タイトルマッチ。

WBAフライ級王者のレパード玉熊陣営が「この試合の勝者と防衛戦を行う」と声明を出します。

戦前予想は、ユーリが圧倒的有利というものでしたが、渡久地にもパンチャーズチャンスがあるという見方も少なくありませんでした。

しかし、渡久地が失踪、連絡が取れない状態が続いてしまいます。ビクトリージムの朝倉勤会長はJBCへのタイトル返上届けの提出を余儀なくされます。

ユーリはピューマの失踪で空位となった日本タイトルの決定戦に出場することが約束されますが、対戦相手はなかなか名乗りを挙げてくれません。

「渡久地が逃げたユーリに勝てばとんでもない名誉が手に入る」のですから、多くのフライ級のランカー がユーリと戦いたかったはずです。

しかし、ジムの会長が大切な日本ランカーに危険極まる橋を渡らせるのを躊躇するのは当然です。 大手ジムのランカーがユーリとの決定戦を回避する中で、1991年7月15日、神林ジムの水野隆博が勇敢にも後楽園ホールのリングに上がりました。

水野は日本フライ級4位、戦績は4勝1KO4敗。

試合は、日本フライ級史上最短の125秒で終わります。従来の記録は、皮肉にも渡久地の持つ170秒でした。

ユーリは8戦全勝8KOにパーフェクトレコードを伸ばし、 翌1992年6月23日国技館でムアンチャイ・キティカセムの持つ WBC世界フライ級タイトルへの挑戦が決定します。

ムアンチャイはいわゆる〝強いから日本には呼ばない王者〟の典型でした。

協栄ジムがこの世界戦に踏み切ったのは「ユーリの方が強い」という確実な自信があったからです。

このタイトルを圧倒的な強さで9度防衛。マイケル・カルバハルやウンベルト・ゴンザレスとのビッグファイトが 実現しなかったのは残念でした。

もし、彼らに勝利を収めていたら、殿堂入りのリストに毎年挙げられることなく、一発殿堂を果たしていたはずです。


さて、渡久地のお話です。

どんなにそれらしい理由を並べようが、誰がどう見ても渡久地はユーリから逃げました。

この不祥事で2年5ヶ月のブランクを作った渡久地は、1993年4月にリング復帰。テレビ中継はされなかったものの、後楽園ホールはフルハウス、3000人の熱気で包まれていました。

相手は元世界フライ級王者で、玉熊とも引き分けているヘスス・キキ・ロハス。

「ベネズエラのテクニシャンに渡久地は苦戦するだろうが、終盤には非力なロハスを乱打戦に巻き込んでノックアウトする」というのが大方の見方でしたが、私にはあまりにも楽観的な予想にしか聞こえませんでした。

結局、渡久地はロハスの左に翻弄された末にスタンディングで2度のカウントをとられ、9回TKO負け。

その後、格下相手に2連勝するも、1994年8月には元東洋太平洋王者の権昌夫に8回TKOに沈められてしまいました。

そして、再起戦で日本王者の岡田明大に僅差判定勝利で、タイトルを取り戻すと3連続KO防衛。


1996年8月26日。

5年5ヶ月を経て、ついに渡久地が贖罪のチャンスを掴みます。
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戦前予想は幻に終わった初戦以上に「ユーリの圧倒的有利」。

渡久地にも勝機があると予想した少数派の一人、大橋秀行は「渡久地はこの試合のために復帰してきたのだ」と決意の強さ、大きさを評価。さらに「ユーリの相手で本当にパンチがあったのはムアンチャイ・キティカセムだけ。一発の威力なら渡久地はムアンチャイ以上。そして、ユーリは暑さに弱い。渡久地は、試合が長引いてテクニック比べになると勝ち目はない。12回戦ではなく5回戦のつもりで戦うのだ」。

その通りだと思いました。

記者会見では渡久地がユーリに掴みかかり、ユーリもエキサイト、乱闘寸前に。 

「1ラウンドで倒す」という公言通りに、渡久地が自慢の強打を振り回す、そんな展開になると誰もが期待しましたが…。

試合開始ゴングが鳴ると、会見での乱闘騒ぎやトラッシュトークが渡久地の作戦だったことが明らかになります。

ユーリを激怒させて前半をいなし、中盤から後半に勝負をかける。

開始から全く手を出さない渡久地…しかし、そんな小細工が通用する相手ではありません。

ユーリのプランが崩れたのは、4ラウンドに渡久地の頭部を叩いて骨折した右手くらいでした。 

右拳を強く打てない王者でしたが、7回にレバーから顎への左の二連発。渡久地はたまらず両手をキャンバスについてしゃがみみます。

なんとか立ち上がった渡久地に、王者は一気に攻め込んで2度目のダウン。

8回を流したユーリは、9ラウンドで不器用な挑戦者を簡単に仕留めました。

渡久地はこの敗北の後も3年、6試合を戦って引退。 

「作戦が間違っている。逆だよ」。見せ場のないワンサイドゲームに失望しながら、1万人以上が集まった両国国技館を出ました。

会見ではおとなしくしながら、試合では開始ゴングから襲い掛かる、それしかなかったはずです。

1991年3月21日。日本王者としてユーリを迎え撃つはずだった、あの試合に向き合わなかった、その時点で、渡久地はボクサーとしては終わっていたのかもしれません。



それにしても。

応援していたアスリート、特にボクサーが第二の人生で大きな蹉跌を味わうのを知ってしまうのは、辛いことです。