今年は、村上が日本人としてMLBの舞台に初めて立ってから60年の節目だそうです。

法政二高から南海ホークスに入団した村上は1964年、2年目の19歳で野球留学。

プロ入りを逡巡していた村上が「大の西部劇好きで米国に憧れていた」ことを知った南海の鶴岡一人監督が「米国に野球留学させてやるから」と説き伏せたというのですから、覚悟の挑戦というよりも物見遊山の留学という色彩が濃く、野茂英雄のような「最高峰のMLBへの挑戦」という決意は希薄だったと思われます。

また、村上は単身渡米したのではなく、新人の高橋博士と田中達彦も一緒だったことからも、NPBの超トップ選手が挑戦するという現在のスタイルとは全く違う、かつて若かりし山本昌や工藤公康がマイナーで勉強したようなまさに留学でした。

村上らの〝留学先〟は1Aフレズノ。活躍して2A、3Aのステージに上がって、ピラミッドの頂点であるメジャーまで登り詰めるには早くても2〜3年かかるのが相場です。

しかし、1964年9月1日。この日からベンチ入り選手枠が拡大されたことで、村上は2Aと3Aをスキップして一気にメジャー、サンフランシスコ・ジャイアンツへ。

この年、村上は9試合15イニングを投げて1勝0敗1セーブ、防御率1.80の成績を刻みました。

2年目は堂々のメジャー契約するも、南海との二重契約が問題となりますが、前年優勝の南海の戦力は充実しており、「あと1年」の条件でメジャーのマウンドに立ちます。

2年目は45試合74イニング1/3を投げて4勝1敗8セーブ、防御率3.75。クローザーを務めることもあった日本人左腕はSFジャイアンツの貴重な戦力でした。

image


当時の日本の投手で村上が最も大リーグに通用する素質があったわけではないのは明らかでした。

渡米前の高卒1年目で登板3試合2イニングで勝敗つかず、防御率4.50の村上は帰国後の日本での成績を見ても傑出した投手ではありませんでした。

村上の成功に刺激されて杉浦忠や金田正一、稲尾和久らがメジャーに挑戦していたら大きな爪痕を残していたであろうことは疑いようもありません。もちろん契約の問題が大きく横たわっており、球団がドル箱スターを手放すわけがなく、メジャー挑戦は事実上不可能でした。

また、当時のメジャー、世界のプロスポーツの報酬は決して高くなく、日本の報酬が決して見劣りするものではなかったという点もトップ選手がメジャーへの欲求を刺激しにくい一因になっていたかもしれません。

そして、村上がメジャー昇格した1964年9月1日の日本は東京オリンピックに沸き立っており、日本人が起こした大快挙を理解するには、当時の太平洋の向こう側はあまりにも遠すぎたのでしょう。

当時のメディアやファンが村上の大快挙を大きく報じ、熱狂的に騒いだ形跡もありません。


野茂英雄が不退転の決意を胸に海を渡る30年後まで、メジャーが「日本人には絶対無理」という空気が醸成されたのも不思議です。

「スリークォーターの村上が通用したんだから、少なくとも変則左腕は通用するし、村上よりも圧倒的に実力のあった大エースたちなら大活躍できる」という発想にならずに「メジャーは無理」という意識に凝り固まったのでした。

いずれにしても、日本人にメジャーへの道を切り拓いたのは野茂英雄でした。野茂のあとに道ができたのです。

もちろん、そのことで野茂よりも30年も前にメジャーの美しいマウンドに上がった村上雅則の偉業が霞むわけではありません。

村上が初めてメジャーのマウンド(ニューヨーク・シェイスタジアム)に向かうとき、米国のヒッチチャートで1位を獲得していた「スキヤキ(上を向いて歩こう)」を口ずさんで緊張をほぐしたそうです。



いいですね。上を向いて歩こう。