高校時代の野球地区大会。同じブロックの高校の野手が死球を頭部に受けて亡くなりました。

中学生で100mを10秒台で走る少年がいました。娘も出場していたある競技会でのウォーミングアップで他の選手と激突、命を落としてしまいました。

大学時代、ある先輩の兄が登山家でしたが、冬山で行方不明になり、翌春発見されました。



「スポーツで命を失う」。全身全霊を競技に捧げる限り、悲劇はなくなりません。




きょう、総合格闘家の青木真也が「安全管理を再検証して再発防止策を講じるのはもちろんのこと、格闘技競技がスポーツとして許されるのか否かの議論が一度あってもいいと思います」と、提言しました。

しかし、この深刻な問題は、ボクシングの歴史で最も古くから取り組まれてきたものです。

ロープの本数を3本から4本に増やす、世界戦のラウンドを15から12に短縮する、グローブの規格を変更する、主審のストップを早める、試合後のボクサーの診断によっては試合間隔を開ける、場合によっては引退勧告する…全てはそんな取り組みの一環です。

ボクサーの健康管理も格段に厳しく、精密になっています。

それでもリング禍はなくなりません。


「厳冬期の北壁登山は禁止」などというルール整備をしない登山とは違い、ボクシング界はラグビーやアメフトほどではないものの、全く何もしてこなかったわけではありません。

それなのに、ボクシングだけが廃止論に晒されているのは、そこに明白な故意が存在するからです。

冬山北壁アタックは純粋な挑戦でしかありませんが、リング禍は脳震盪を起こすことを目的に人間の急所を拳で打ち込む故意によってもたらされた悲劇です。

ボクサーは「脳を揺らして脳震盪を起こすことを目的に急所に打ち込むパンチの習得」を目指しています。

「脳震盪を起こすことを目的に急所にパンチを打ち込む」という意識は、悪意、いや殺意に換言できるというのが廃止論者たちの言い分です。

「ボクシングを選択したのは大人の自己責任。他人がとやかくいうことではない」というには、時代が成熟し過ぎてしまいました。



モハメド・アリも、マニー・パッキャオも、フロイド・メイウェザーも、ファイティング原田も、具志堅用高も、辰吉丈一郎も、亀田興毅も、井上尚弥も…みんなみんなボクシングがなければ、命を燃やす舞台を見失っていたかもしれないハグレ者たちです。

しかし、真剣で戦う剣道があればそこで命を燃やす若者も現れるでしょうが、それは禁止です。

真剣は危険すぎる、リング禍とは桁違いの悲劇が起きる、試合が凄惨すぎる、という殺傷能力と頻度、見た目だけの問題なのでしょうか?

あるいはボクシングもフェンシングのように頭部と内臓を保護する防具をつけて、電子的にヒットを計算するようにしたら、リング禍は無くなるでしょう。

さらに顎やテンプル、肝臓や心臓への危険なパンチを打った時点で反則負けにすると、安全性はさらに高まります。

廃止論者は冷めた目で笑い、こう言います。

この話をするとボクシングファンは決まって「ふざけるな!そんなのボクシングじゃない!」と怒り出す。だったら他に抜本的な安全策があるのか?と尋ねると、途端に口を濁すから「ロープを5本にしましょうか?」とふざけると、今度は「ふざけるな!」とは怒らなくなって、下を向く。

「あんたたちボクシングファンは、もしかしたら、人の命が脅かされるボクシングが見たいだけなのか?」。