ボクシングは他のスポーツとは根本的に違う。
最近ではボクササイズなんて運動もあるが、あれはボクシングではない。
ボクシングはとにかく肉体を痛めつけるスポーツだ。
サッカーや野球なら健康的に楽しむことはできるだろうが、ボクシングの試合はそうはいかない。
だから、リングサイドにはドクターが控えて「これ以上肉体を痛めつけるのは危険」と判断すると、主審が試合を終わらせるのだ。

午後5時25分、狭苦しいロッカールームに白衣を着た男が入ってきた。
ジョニー・グリーブスは、そこがリングに続くロッカールームではなく、まるでパブであるかのように白衣を着た医師を歓迎した。
「よう、遅かったじゃねえか。こっちへ来て飲もうぜ」。そんな感じだった。
確かに、陽が落ちたばかりの時間帯。まさしく、パブが賑わう頃合いだ。
グリーブスは「健康そのものなのに、こんなに医師と仲がいいなんて不思議なもんだ」と、笑った。
医師は無表情のまま、事務的に「最後にボクシングをしたのは?」と聞くと、グリーブスも笑うのをやめて「先週、リバプールで試合をやったよ」と答えた。
医師は「結果は?」と聞くと、33歳の白人ボクサーは「知ってるだろ」と吐き捨てた。
医師は「それはこっちのセリフだ。わかっていても聞かなければならない決まりだって、知ってるだろ」と、問い詰めた。
88戦3勝85敗のグリーブスは「ああ、そうでした。ちゃんと記憶があるのか、しっかり会話ができるのかチェックするんでしたね。判定負けでした」と笑い返した。
さらに「そんなこんなで、現在31連敗中です。どうです、私の頭はしっかりしてるでしょう」と付け加えた。
医師は「頭痛や怪我、視力や視界、視野に異常は?」と聞きながら、クリップボードに挟んだ診断書にボールペンを走らせた。
グリーブスは「全くありません、至って健康、至って正常です」と、おどけて答えた。
医師は、82も負け越しているボクサーの腕を、ポンっと叩くと、静かに小さな声で、それなのにはっきりと祈るように呟いた。
“Good luck, Johnny”
「がんばれよ、ジョニー」。
医師は、「もう引退しろ」と忠告するのは無駄だと思い知らされていたから、ヤケクソと皮肉を込めて「がんばれ」なんて声をかけたのだと、見ている人がいたなら、そう思ったかもしれない。
もしかしたら、この医師も最初はそうだったかもしれないが、少なくとも今は違う。
「本気で応援してるのさ。3勝85敗のボクサーが何度も立ち上がって、4勝目を掴むためにロープを潜るんだ。そんな男を応援しない理由があるかい?」。
医師は狭い部屋の中で、次のやはり見慣れた顔に向かって「最後にボクシングの試合をしたのは?」と、再び事務的な口調で問診を進めて行った。
カットマンのジェイソン・フィールディングにバンテージを巻いてもらいながら、グリーブスはイライラしてくる感情を押し殺していた。
フィールディングが右手だけで3度、パッドを床を落としたとき、グリーブスは「サウスポーのハンドラップをしたことは?」と、ついに尋ねた。
少し間をおいて、フィールディングは「実は今が初めてだ。カットマンの仕事は大好きなんだけど、うまくいかないことが多くてね」と告白した。
両手のハンドラップが完成すると、グリーブスは優しく「ありがとう」とお礼を伝えた。「俺たちは似たもの同士だな」と思ったが、そこまで言うのは…やめた。
ロッカールームの中のボクサーは、非常に興味深いことに全く同じ習性を見せる。
この夜、メインイベンターをつとめるウェルター級で世界タイトルを狙う無敗のケル・ブルックも、同じウェルター級でもほとんど全ての試合で負け続けているジョニー・グリーブスも、入場の時間が近づくと周囲に電気のように伝わる緊張を走らせる。
彼らの心臓の高鳴りまでが聞こえそうで、どんなに饒舌なボクサーでも言葉数が急に減るのだ。

ーーーーー試合が終わり、グリーブスは興奮していた。
フィールディングにグローブを外してもらいながら「信じられない!どうしてあれがダウンなんだ?俺は足を滑らせただけなのに!あのレフェリーはどうかしてる!」と、捲し立てた。
グリーブスは4ラウンド12分間を戦い抜いた。しかし、誰がどう見ても全てのラウンドを失っていた。
もし、あの〝スリップ〟がダウンにされなかったとしたら…40–35のジャッジが40–36になるだけのことだった。
ちなみに、British Boxing Board of Control(英国ボクシング管理委員会)では、前座の4回戦などを主審一人でジャッジすることが多い。
つまり、40−35は主審のフィル・エドワーズの採点だった。全ての怒りが主審に向けられるのは、そんな理由もある。
フィールディングと共にコーナーに入っていたエド・マスカットに「よくやった、お前を誇りに思うよ」と、頭からタオルをかけられても、4勝目を逃し、86敗目を喫した33歳の怒りは収まらなかった。
「スリップをダウンにした挙句、負けにしやがって!」。グリーブスは不当判定を受けたかのように怒鳴り散らしていた。
マスカットが「そんなに元気なら、来週も試合ができるな。ロンドンのイベントからオファーが来てるみたいだ」と告げられて、ようやく興奮が冷めてきた。
フィールディングが「ということは、最低限の目標はクリアしたってことだよな?シェフィールドから応援してるぜ」と、グリーブスにウィンクした。
なにはともあれ。
グリーブスの戦績は89戦3勝86敗となった。
負け数は一つ増えたが、目標の100試合までは一つ前進した。
その後、グリーブスは連敗のテープを42まで伸ばし(てしまい?)、2013年9月29日の試合をもってグローブを吊るした。
この最後の試合について、二つのことを忘れずに書き記さなければならない。
一つ目は、34歳になったグリーブスは、目標の100試合に達したこと。
二つ目は、39−37で勝利したこと。ジョニー・グリーブスは、通算100試合4勝(1KO)96敗、96の黒星のうちKO負けは12、そんな驚異のキャリアに幕を引いた。
そして、最後の試合で勝利した相手のことにも触れなければいけない…だから二つではなく、三つだ。
その三つ目は、最後の対戦相手、当時25歳の若者、ダニエル'Dirty Dan'カーのこと。
カーの、この日までの戦績は、46戦2勝42敗2分。
4ラウンド終了のゴングが鳴って、グリーブスに健闘を讃えられると「100試合目ですよね?もうやめちゃうんですか?」と、カーは聞いた。
グリーブスは「ここらが潮時だ。お前もここまでがんばれ」と激励すると、カーは「100試合ですか…遠いな。でも挑戦しますよ」と苦笑いした。
その異名の通りにダーティファイトで暴れるカーは故障も多く、2017年3月3日、36歳で引退する。
戦績は90戦3勝(2KO)85敗2分だった。
さて。
彼らは負け組なのだろうか?
100試合も戦って4つしか勝てないのに、ボクシングが大好きで、情熱を燃やし続けることが出来る彼らの人生を勝敗で測るのは、あまりにも単細胞な見方だ。
通算100試合4勝(1KO)96敗。この数字だけ見て、このファイターへの尊敬の念が芽生えないボクシングファンが、いるだろうか?
仕事をしながら、トレーニングと減量に励み、経費で足が出るような少ないファイトマネーでリングに上がり続ける。
そんなバカなことに人生を捧げる理由なんて、たった一つだけしかあり得ない。
「ボクシングが好きだから」だ。
彼らは愚か者なのだろうか?
もし、彼らが負け組で愚か者だとしたら?
そうだとしたら、負け組で愚か者とは、幸せ者とイコールということになる。
まあ、世の中の真実ってやつは、そういうところに落ち着くんだろう。
最近ではボクササイズなんて運動もあるが、あれはボクシングではない。
ボクシングはとにかく肉体を痛めつけるスポーツだ。
サッカーや野球なら健康的に楽しむことはできるだろうが、ボクシングの試合はそうはいかない。
だから、リングサイドにはドクターが控えて「これ以上肉体を痛めつけるのは危険」と判断すると、主審が試合を終わらせるのだ。

午後5時25分、狭苦しいロッカールームに白衣を着た男が入ってきた。
ジョニー・グリーブスは、そこがリングに続くロッカールームではなく、まるでパブであるかのように白衣を着た医師を歓迎した。
「よう、遅かったじゃねえか。こっちへ来て飲もうぜ」。そんな感じだった。
確かに、陽が落ちたばかりの時間帯。まさしく、パブが賑わう頃合いだ。
グリーブスは「健康そのものなのに、こんなに医師と仲がいいなんて不思議なもんだ」と、笑った。
医師は無表情のまま、事務的に「最後にボクシングをしたのは?」と聞くと、グリーブスも笑うのをやめて「先週、リバプールで試合をやったよ」と答えた。
医師は「結果は?」と聞くと、33歳の白人ボクサーは「知ってるだろ」と吐き捨てた。
医師は「それはこっちのセリフだ。わかっていても聞かなければならない決まりだって、知ってるだろ」と、問い詰めた。
88戦3勝85敗のグリーブスは「ああ、そうでした。ちゃんと記憶があるのか、しっかり会話ができるのかチェックするんでしたね。判定負けでした」と笑い返した。
さらに「そんなこんなで、現在31連敗中です。どうです、私の頭はしっかりしてるでしょう」と付け加えた。
医師は「頭痛や怪我、視力や視界、視野に異常は?」と聞きながら、クリップボードに挟んだ診断書にボールペンを走らせた。
グリーブスは「全くありません、至って健康、至って正常です」と、おどけて答えた。
医師は、82も負け越しているボクサーの腕を、ポンっと叩くと、静かに小さな声で、それなのにはっきりと祈るように呟いた。
“Good luck, Johnny”
「がんばれよ、ジョニー」。
医師は、「もう引退しろ」と忠告するのは無駄だと思い知らされていたから、ヤケクソと皮肉を込めて「がんばれ」なんて声をかけたのだと、見ている人がいたなら、そう思ったかもしれない。
もしかしたら、この医師も最初はそうだったかもしれないが、少なくとも今は違う。
「本気で応援してるのさ。3勝85敗のボクサーが何度も立ち上がって、4勝目を掴むためにロープを潜るんだ。そんな男を応援しない理由があるかい?」。
医師は狭い部屋の中で、次のやはり見慣れた顔に向かって「最後にボクシングの試合をしたのは?」と、再び事務的な口調で問診を進めて行った。
カットマンのジェイソン・フィールディングにバンテージを巻いてもらいながら、グリーブスはイライラしてくる感情を押し殺していた。
フィールディングが右手だけで3度、パッドを床を落としたとき、グリーブスは「サウスポーのハンドラップをしたことは?」と、ついに尋ねた。
少し間をおいて、フィールディングは「実は今が初めてだ。カットマンの仕事は大好きなんだけど、うまくいかないことが多くてね」と告白した。
両手のハンドラップが完成すると、グリーブスは優しく「ありがとう」とお礼を伝えた。「俺たちは似たもの同士だな」と思ったが、そこまで言うのは…やめた。
ロッカールームの中のボクサーは、非常に興味深いことに全く同じ習性を見せる。
この夜、メインイベンターをつとめるウェルター級で世界タイトルを狙う無敗のケル・ブルックも、同じウェルター級でもほとんど全ての試合で負け続けているジョニー・グリーブスも、入場の時間が近づくと周囲に電気のように伝わる緊張を走らせる。
彼らの心臓の高鳴りまでが聞こえそうで、どんなに饒舌なボクサーでも言葉数が急に減るのだ。

ーーーーー試合が終わり、グリーブスは興奮していた。
フィールディングにグローブを外してもらいながら「信じられない!どうしてあれがダウンなんだ?俺は足を滑らせただけなのに!あのレフェリーはどうかしてる!」と、捲し立てた。
グリーブスは4ラウンド12分間を戦い抜いた。しかし、誰がどう見ても全てのラウンドを失っていた。
もし、あの〝スリップ〟がダウンにされなかったとしたら…40–35のジャッジが40–36になるだけのことだった。
ちなみに、British Boxing Board of Control(英国ボクシング管理委員会)では、前座の4回戦などを主審一人でジャッジすることが多い。
つまり、40−35は主審のフィル・エドワーズの採点だった。全ての怒りが主審に向けられるのは、そんな理由もある。
フィールディングと共にコーナーに入っていたエド・マスカットに「よくやった、お前を誇りに思うよ」と、頭からタオルをかけられても、4勝目を逃し、86敗目を喫した33歳の怒りは収まらなかった。
「スリップをダウンにした挙句、負けにしやがって!」。グリーブスは不当判定を受けたかのように怒鳴り散らしていた。
マスカットが「そんなに元気なら、来週も試合ができるな。ロンドンのイベントからオファーが来てるみたいだ」と告げられて、ようやく興奮が冷めてきた。
フィールディングが「ということは、最低限の目標はクリアしたってことだよな?シェフィールドから応援してるぜ」と、グリーブスにウィンクした。
なにはともあれ。
グリーブスの戦績は89戦3勝86敗となった。
負け数は一つ増えたが、目標の100試合までは一つ前進した。
その後、グリーブスは連敗のテープを42まで伸ばし(てしまい?)、2013年9月29日の試合をもってグローブを吊るした。
この最後の試合について、二つのことを忘れずに書き記さなければならない。
一つ目は、34歳になったグリーブスは、目標の100試合に達したこと。
二つ目は、39−37で勝利したこと。ジョニー・グリーブスは、通算100試合4勝(1KO)96敗、96の黒星のうちKO負けは12、そんな驚異のキャリアに幕を引いた。
そして、最後の試合で勝利した相手のことにも触れなければいけない…だから二つではなく、三つだ。
その三つ目は、最後の対戦相手、当時25歳の若者、ダニエル'Dirty Dan'カーのこと。
カーの、この日までの戦績は、46戦2勝42敗2分。
4ラウンド終了のゴングが鳴って、グリーブスに健闘を讃えられると「100試合目ですよね?もうやめちゃうんですか?」と、カーは聞いた。
グリーブスは「ここらが潮時だ。お前もここまでがんばれ」と激励すると、カーは「100試合ですか…遠いな。でも挑戦しますよ」と苦笑いした。
その異名の通りにダーティファイトで暴れるカーは故障も多く、2017年3月3日、36歳で引退する。
戦績は90戦3勝(2KO)85敗2分だった。
さて。
彼らは負け組なのだろうか?
100試合も戦って4つしか勝てないのに、ボクシングが大好きで、情熱を燃やし続けることが出来る彼らの人生を勝敗で測るのは、あまりにも単細胞な見方だ。
通算100試合4勝(1KO)96敗。この数字だけ見て、このファイターへの尊敬の念が芽生えないボクシングファンが、いるだろうか?
仕事をしながら、トレーニングと減量に励み、経費で足が出るような少ないファイトマネーでリングに上がり続ける。
そんなバカなことに人生を捧げる理由なんて、たった一つだけしかあり得ない。
「ボクシングが好きだから」だ。
彼らは愚か者なのだろうか?
もし、彼らが負け組で愚か者だとしたら?
そうだとしたら、負け組で愚か者とは、幸せ者とイコールということになる。
まあ、世の中の真実ってやつは、そういうところに落ち着くんだろう。
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