世界のバンタム級というと、パナマ・アル・ブラウンらの神話から、エデル・ジョフレやルーベン・オリバレス、カルロス・サラテ、アルフォンソ・サモラらの怪物伝説が真っ先に思い浮かぶでしょう。

しかし!悲しいかな。

一等最初のボクシング体験が70年代末の具志堅用高だった私は、それ以前の世界のボクシングを知りません。

80年代は、IBFが産み落とされた3団体時代。当時はJBCが認めず、IBFジャパンが活動していました。

しかし、IBFは人気階級でピッグネームを王者に担ぎ上げたものの、多くの階級で怪しげな王者がひしめき、先発二団体ほどの信用も権威もありませんでした。

そんな、私が皮膚感覚で知る、80年代の「2.5団体時代」から現在まで、バンタム級にその名を刻んだ印象的な世界王者を独断と偏見で回想してゆきます。


第1回はベルナルド・ピニャンゴ、バンタム級最後のLineal Championです。

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【プロフィール】

ベネズエラを代表するエリートアマは、1980年モスクワ五輪バンタム級で銀メダルに輝き、110勝10敗の戦績を残して、翌81年プロデビュー。

そのデビュー戦はまさかのドローに終わります。

プロ5年目、1986年6月4日にようやく世界初挑戦に漕ぎ着けたときは17勝12KO2敗2分、26歳になっていました。

母国ベネズエラやプエルトリコ、パナマと〝人目に付かず〟に戦ってきたピニャンゴが挑戦したのはWBAバンタム級王者ガビー・カニザレス。

のちにIBF同級王者として殿堂入りも果たすオルランドのお兄さんです。
IMG_5895「バンタムのデュラン」と呼ばれたガビー。確かに似てます。米国の軽量級はジェフ・チャンドラーや、ガビーの弟のオルランドら、魅力的的な実力派が多かったものの、軽量級の悲哀、華やかな舞台とは無縁の日陰の存在に甘んじ続けました。

カニザレスは3ヶ月前に無敗のリチャード・サンドバルを5度もマットに転がした挙句、7ラウンドTKOで戴冠、これが初防衛戦でした。

そのキャリアのほとんどで米国リングに上がってきたガビーに対して、ピニャンゴはこれが米国発上陸。

同い年の26歳対決とはいえ、戦前の予想は経験と強打に勝るガビーに傾いていました。

しかし、いざ試合が始まるとピニャンゴが多彩な左リードで王者をコントロール。

パナマ在住のオリンピアンの正確な左に、王者の右目は完全にシャッターを降ろし、左目は上も下も切り裂かれてしまいました。

148-144/147-138/146-142のユナニマス。


番狂わせで新王者が誕生しました。ちなみに、スコアをラウンドに置き換えると13-9/12-3/11-7。わかりにくいですが、10-10のイーブンラウンドが多いからです。

12-3を付けたニケイシオ・ドレークは全てのラウンドで10-9をスコア、ピニャンゴに12ラウンド、ガビーに3ラウンドを与えました。

バカみたいに10-9を付けるメリットがあるとしたら「ラウンド採点」でわかりやすいくらいでしょうか。

ちなみに、このイベントはトリプル世界戦。

他の2試合はメインがライト級のジミー・ポール、セミファイナルがジュニアミドル級のバスター・ドレイトンのIBFのタイトルマッチでした。


【後世の評価】

ピニャンゴは7ヶ月で3度の防衛に成功しますが、1987年2月に減量苦からタイトルを返上。

すでに契約が成立していた六車卓也との防衛戦は宙に浮いてしまいます。

そして、バンタム級最後のUndisputed ChampionにしてLineal Championだったエンリケ・ピンターの系譜を継いだピニャンゴが王位を返上したことで、この階級のLineal Championは、ここで断絶してしまいます。

空位のWBAストラップをアサエル・モランと争い勝ち取った六車卓也が、WBC王者ミゲール・ハッピー・ロラに勝って統一王者になっていたなら、Lineal Championが蘇っていましたが…。

その後、ピニャンゴはフリオ・ヘルバシオを下してWBAジュニアフェザー級のピースをキャッチ、2階級制覇に成功しますが、初防衛戦でホセ・エストラーダにスプリットで敗れて陥落。

今も昔も欧米では人気のないバンタム級とジュニアフェザー級、それに輪をかけて、確固たる覇権も築けなかったピニャンゴですが、日本のボクシングファンにとっては六車とニアミスした王者としてしっかり記憶されています。

そして、マニアも知らない、知る必要もないことですが、バンタム級最後のLineal Championでもあるのです。


【当時のボクシングシーン】

ピニャンゴがバンタム級のストラップをつかんだ1986〜87年にかけての世界は、マイク・タイソンが破竹の快進撃で「史上最低レベル」(リング誌)という悲惨なヘビー級に活況をもたらしていた時期です。

そして、米国リングの中心は、ミドル級で完全統一王者=Undisputed ChampionにしてLineal Championだったマーベラス・マービン・ハグラーが支配していました。

ハグラーの下では、ドン・カリーやヘクター・カマチョがスターになっていましたが、まだスーパースター未満、何よりも体格だけではない小粒感が漂っていました。

そして、そのハグラーに、実質5年のブランクからウェルター級のシュガー・レイ・レナードが復活、いきなり挑戦するという信じられない話が持ち上がったのも、この頃です。

5年の空白にもかかわらず、超弩級のスーパースター、レナードにはハグラーを凌駕する人気と存在感がありました。

ただ、本当にハグラーと戦うなら「1対1のリンチにしかならない」(リング誌)と誰もが考えていました。

あの試合は、そんな空気の中で第1ラウンドのゴングが鳴らされたのです。そして、あの判定は、あの空気の中でアナウンスされました。

毎年、アニバーサリーに識者が「再採点」する、史上最も議論を呼んだ試合。

確かに、採点の難しい試合でした。


しかし「議論を呼ぶ」度合いを考えると、最近の「ジャーメルvsカスターニョ」などよりもずっとその目盛りが下の内容、レナード勝利は不当なスコアではありませんでした。

そして、日本では渡辺二郎の時代が終わり、浜田剛史、六車卓也という骨の髄まで大和魂みたいなファイターが剛拳を振るい、辰吉丈一郎が揺籃していた、そんな季節でした。 

10代のタイソン、HBOの解説席でのレナードの慧眼、ハグラーの怒りと諦め…六車と浜田、辰吉が合唱した来るべき帝拳時代の序曲…。

あの時代、私は高校や大学の図書館で活字中毒的に、本当にあらゆる本や雑誌を手当たり次第に読み漁り、その中にはスポイラ誌やリング誌、ボクシングマガジンなどもありました。

ベルナルド・ピニャンゴは、けしてあの頃の私にとって主役ではなく、スポイラはもちろんリング誌でも大きく取り上げられることがない不人気バンタム級の刹那の王者でした。

それでも、20歳前後の思い出です。

ベルナルド・ピニャンゴを忘れるわけがありません。