new!畑中を忘れてはいませんか?
2020-03-31 17:28:52 返信編集 かまちょ
126.34.23.38
*****[お詫び]【2020_0330】105-122Lb 軽量級の勢力図【俯瞰検証】ジュニアフェザーの巻 の中でジュニアフェザー級の歴代王者に畑中清詞を失念しておりました。
それにしても〝東海のカマチョ〟畑中清詞を忘れるとは…。
先日、NHKで放送した「羅生門」のデジタルリマスター版を見ながらという、いつものながら書きでしたが、まさかジュニアフェザーの歴代王者で畑中清詞を忘れてしまうとは!
大変失礼しました。自分の記憶力に、改めて幻滅です。
というわけで!
ジュニアフェザー級で一旦区切りだったシリーズに番外編です。
ジュニアフェザー級で一旦区切りだったシリーズに番外編です。
◉◉◉◉◉◉◉
1980年代。ボクシングはすでにメジャースポーツの座から転がり落ちていましたが、当時はまだサッカーも総合格闘技の芽も息吹いていない時代です。
1980年代。ボクシングはすでにメジャースポーツの座から転がり落ちていましたが、当時はまだサッカーも総合格闘技の芽も息吹いていない時代です。
ボクシングは、プロスポーツとしてそれなりの体面を保っていました。
日本のボクシング黄金時代は言わずと知れた1960年代。民放各社がボクシング番組を持ち、毎日のようにゴールデンタイムでボクシングが中継されてました。
この黄金の1960年代に、最初の三羽ガラスが登場しました。
ファイティング原田と海老原博幸、青木勝利は日本列島を熱狂させ、原田は世界的な名声を得て事実上の一発殿堂入り。海老原も世界王者に登り詰めました。
そして90年代になると、平成の三羽ガラスがリングに上がります。辰吉丈一郎と鬼塚勝也、ピューマ渡久地の3人がボクシングファンの熱視線を集め、辰吉は浪花節のカリスマに、ストイックな修行僧のような鬼塚も世界タイトルを獲得しました。
この30年の時を隔てた三羽ガラスの間には「最も才能がある」と言われた青木と渡久地が世界に届かなかったという、スポーツの本質を抉る共通点が浮き彫りになっていました。
今夜のお話はもちろん、三羽ガラスではありません。
今夜のお話はもちろん、三羽ガラスではありません。
90年代の三羽ガラスが羽ばたく直前に、もう一つの〝三羽ガラス〟が存在していたことを覚えているでしょうか?正確には四羽いたのですが。
髙橋ナオトと飯泉健二、そして畑中清詞。この3人に福田健吾も入ることもありました。
80年代、煌びやかな時代に彼らもまたリングの上で強烈な個性を爆発させました。
80年代、煌びやかな時代に彼らもまたリングの上で強烈な個性を爆発させました。
髙橋と飯泉、福田と東京で輝く3人に対して、名古屋の畑中は地味な存在に甘んじていました。
しかし、他の三羽ガラスが最も才能があると見られた1人だけが世界チャンピオンになれなかったのに対して、80年代の三羽ガラスは最も地味な1人だけが世界王者のベルトを巻くことになるのです。
そうです、畑中清詞です。
世界初挑戦では、ある種これ以上ない形での惨敗。そして世界奪取の試合は、崖っぷちからの奇跡の大逆転勝利。
感情をストレートに爆発させる性格もあいまって、畑中は強烈な印象をボクシングファンの脳裏に刻みました。…私が書くと全く説得力がありませんが…。
1967年、愛知県北名古屋市に生まれた畑中は、小学生から空手を習い全国優勝も果たし、中学生になるとボクシングを始めます。
スポーツの名門享栄高校で史上初のボクシングの特待生としてインターハイや国体に出場。3年生でプロデビュー(1984年)。連戦連勝で専門誌やナンバー誌だけでなく、一般誌・男性誌でも特集される人気の若手アスリートでした。
1989年のナンバー157号(最新号で1000号を迎えたそうです)では期待のホープとして飯泉健二(中央)、福田健吾(右)と畑中。
背景は当時のラスベガスで最高の舞台、シーザースパレスの屋外特設リング。「ボクシングの世界では1試合で1000万ドル以上のファイトマネーも夢ではない」。
この当時から、ありもしない「軽量級のラスベガス妄想」をミスリードするメディアが湧いていました。
ちなみに、福田の人気はすさまじく映画でも主演。タイトルはなんと「ウェルター」。ボクシングファンは「お前、フェザーやないかいッ!」と突っ込んでいました。
軽量級妄想に耽りながらも、意外と現実をわきまえていた80年代のファンは、現在よりもずっと大人だったのかもしれません。
そんな4人の人気者の中でただ1人、世界にたどり着いたのが畑中でした。
最初のチャレンジは1988年9月4日。ローマンは渡辺二郎から奪ったWBCジュニアバンタム級タイトルの第二次政権を築いていました。
ローマンとの技術差は絶望的で、畑中のパンチは全く当たりません。自分に苛立った畑中がリング上で地団駄を踏むシーンさえあった、どうしようもない完敗に終わります。
2年5ヶ月後の再挑戦は、2階級上げたジュニアフェザー。
名古屋レインボーホールのリングに引っ張り上げたのは、WBC王者のペドロ・デシマ。
ロスアンゼルス1984でバンタム級ベスト8のアルゼンチン人は、初防衛戦とはいえ26勝18KO2敗のスラッガーで、階級を上げた畑中は圧倒的不利と見られていました。
第1ラウンド、26歳のアルゼンチン人のワンツーで畑中がダウン。早くも嫌な予感が漂います。デシマの攻勢は2〜3ラウンドも続き、畑中は鼻血も出して劣勢は明らか。
そして、もはや時間の問題と思われた第4ラウンド…。
1967年、愛知県北名古屋市に生まれた畑中は、小学生から空手を習い全国優勝も果たし、中学生になるとボクシングを始めます。
スポーツの名門享栄高校で史上初のボクシングの特待生としてインターハイや国体に出場。3年生でプロデビュー(1984年)。連戦連勝で専門誌やナンバー誌だけでなく、一般誌・男性誌でも特集される人気の若手アスリートでした。
1989年のナンバー157号(最新号で1000号を迎えたそうです)では期待のホープとして飯泉健二(中央)、福田健吾(右)と畑中。
背景は当時のラスベガスで最高の舞台、シーザースパレスの屋外特設リング。「ボクシングの世界では1試合で1000万ドル以上のファイトマネーも夢ではない」。
この当時から、ありもしない「軽量級のラスベガス妄想」をミスリードするメディアが湧いていました。
ちなみに、福田の人気はすさまじく映画でも主演。タイトルはなんと「ウェルター」。ボクシングファンは「お前、フェザーやないかいッ!」と突っ込んでいました。
軽量級妄想に耽りながらも、意外と現実をわきまえていた80年代のファンは、現在よりもずっと大人だったのかもしれません。
そんな4人の人気者の中でただ1人、世界にたどり着いたのが畑中でした。
最初のチャレンジは1988年9月4日。ローマンは渡辺二郎から奪ったWBCジュニアバンタム級タイトルの第二次政権を築いていました。
ローマンとの技術差は絶望的で、畑中のパンチは全く当たりません。自分に苛立った畑中がリング上で地団駄を踏むシーンさえあった、どうしようもない完敗に終わります。
2年5ヶ月後の再挑戦は、2階級上げたジュニアフェザー。
名古屋レインボーホールのリングに引っ張り上げたのは、WBC王者のペドロ・デシマ。
ロスアンゼルス1984でバンタム級ベスト8のアルゼンチン人は、初防衛戦とはいえ26勝18KO2敗のスラッガーで、階級を上げた畑中は圧倒的不利と見られていました。
第1ラウンド、26歳のアルゼンチン人のワンツーで畑中がダウン。早くも嫌な予感が漂います。デシマの攻勢は2〜3ラウンドも続き、畑中は鼻血も出して劣勢は明らか。
そして、もはや時間の問題と思われた第4ラウンド…。




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