プロボクシングの世界戦が、当たり前に地上波生中継されていた時代。

プロボクサーの第一人者が、プロ野球の超トップ選手と同格かそれ以上の存在であった時代。

プロボクシングの世界チャンピオンが、あらゆるスポーツで最も尊敬される肩書きであった時代。

世界と戦う日本人を応援できる場所が、ボクシングの小さな四角いリングしかなかった時代。

ボクシングが夏を謳歌していた季節は1981年3月8日、具志堅用高がペドロ・フローレスの拳に打ち倒され、コーナーから白いタオルが投げられた瞬間に終わりました。

あのとき具志堅の14連続防衛が阻まれました。そして、同時にボクシングの世界王者が就いてきた国民的スターの系譜にも終止符が打たれたのです。

あれから約40年。

この間、辰吉丈一郎や亀田兄弟ら具志堅に迫る視聴率を残す人気者が突発的に出現はしています。

しかし、彼らが座っていたのは、具志堅や長嶋茂雄、王貞治らが鎮座していた玉座とは明らかに違います。彼らの椅子は、一時的に高揚した野次馬たちが担いだ不安定で奇妙な神輿に過ぎません。

辰吉や亀田らは同時代の野球やサッカーのスーパースターのトップとは、けして同列ではなかったのです。

前置きが長くなりました。

日本ボクシング史で最後の国民的スターとなってしまった具志堅用高です。
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写真はいずれも読売新聞「時代の証言者」から。時代を彩った政財界や芸能界、スポーツ界のビッグネームの人生を振り返る連載です。

ボクシング人気の没落、世界王者の認知度も低迷一方の現状では井上尚弥や井岡一翔らが後世、こういう形で語られることは、残念ながらありえないでしょう。


具志堅についてはこのブログでも触れていますが、「時代の証言者」でご本人が語っている「事実」と巷間広まっている「伝説」にギャップがあるのは当然のこととはいえ面白いものです。

ちなみに「大分盛ってるな」と疑っていた〝羽田拉致事件〟は事実でした。今なら十分犯罪です。

本土復帰して間もない沖縄からやって来た高校チャンピオン。

ポケットモンスターのエビワラーのモデルとなって2度世界にその名を知らしめた海老原博幸をして「私より遥かに上」と言わしめた逸材。

「100年に一人の天才」のデビュー戦は1974年5月28日後楽園ホール、のちの日本王者・牧公一に決まりました。

以下、「時代の証言者」で具志堅が当時を振り返っています。


ーーー高校時代の階級は45kg以下のモスキート級でしたが、当時のプロでは50.8kgのフライ級が最軽量。僕は服を着ても50kgに満たない体だったので、リングで牧さんと向かい合ったとき「大きいな」と思いました。

またアマチュア時代は12オンス(340g)のグラブでしたが、プロでは6オンス(170g)。しかも高校時代に着用していたヘッドギアは無し。

当時のリングサイドは口うるさいボクシング通が陣取っていて、このときは手厳しくやじられました。

「何がアマチュアチャンピオンだ」「帰れ」ってね。

試合が終わったとき、顔は腫れ「負けた」と思いました。勝者として自分の名前が呼ばれても、うれしくなかったですね。

新聞には「期待はずれ」と書かれ、すっかり自信喪失してしまいました。

9月に牧さんと再戦。このときはディフェンスを徹底的に練習して臨みました。その成果もあってパンチはほとんど食いませんでしたが、倒すこともできませんでした。

フライ級ではパワー不足は否めません。



モスキート級(45kg)から5.8kgも重いフライ級で戦うしかなかったのですから、苦戦は当然です。

5.8kgとは12.79ポンド!

バンタム級(118ポンド)の井上尚弥がジュニアライト級(130ポンド)で戦うよりも過酷な体重差です。

体重超過のジャーボンタ・デービスと戦うようなものです。


♬運が良いとか悪いとか、人はときどき口にするけど、そういうことって確かにあると、具志堅見ててそう思う〜


具志堅がプロデビューした翌1975年12月、WBCがジュニアフライ級の世界ランキングを発表、翌年に初代王者決定戦を開催すると、WBAもこれに続きます。

WBCが「フライ級が重すぎる選手にもチャンスを!」と新設した108ポンド(48.98kg)クラスの誕生は、最初から政治的でいわくつき、つまりスキャンダラスでした。

まず、欧州の大物プロモーター、ウンベルト・ブランキーニがWBCに画策して手駒のフランコ・ウデラを決定戦で王者に仕立て上げましたが、すぐに王座は剥奪されます。

パラグアイのラファエル・ロベラ(13戦全勝9KO)との対戦に応じなかったというのが表向きの理由ですが、実態はロベラ陣営がWBCを買収してウデラのベルトを剥奪させたのでした。

22歳のパラグアイ人、ロベラはルイス・エスタバとの決定戦に出場。エスタバは37歳のベネズエラ人、咬ませ犬でした。しかし、結果はエスタバの4ラウンドKO、圧勝劇に終わります。

WBCはロベラの戦績の調査に乗り出さざるをえなくなり、なんとロベラは一度もプロ試合経験がなかったことが発覚しました。

つまり、デビュー戦で世界タイトルを争ったのです。

数え切れない汚点にまみれたWBCでも、ワースト100に数えられる失態でした。

それでも、エスタバは39歳になるまで2年以上に渡って11連続防衛に成功。スキャンダルの中からスタートした水増し階級でいぶし銀の健闘をみせました。

この遅咲きの強豪王者エスタバに敗れた11人の挑戦者には、具志堅に先立ってこの階級の王座に挑戦した島袋武信の名前もリストアップされています。

そして、経済大国日本で国民的ヒーローとなった具志堅によって、ジュニアフライ級は完全に認知されます。

当時は、まだニ団体13階級時代。PFPランキングなど、定期的に発表する需要も必要性もない時代でした。

しかし、のちの1970年代PFP(リング誌)で具志堅が10位にランクされて再評価が進んだことからもわかるように、具志堅が新設階級に生命を吹き込んだことは間違いありません。

今では考えられませんが当時、国民的人気のあった二大スポーツ選手は王貞治と具志堅用高でした。 具志堅の試合は日曜日のゴールデンタイムに生中継され、巨人戦と変わらない30〜40%の視聴率をマークし続けたのです。

そして、1979年1月7日にはリゴベルト・マルカノを7ラウンドKOで7度目の防衛に成功。日本記録(従来の記録は輪島功一と小林弘の6) を更新します。

通算本塁打756号の世界記録に迫っていた王、そして連続防衛の日本記録を更新する具志堅に日本中が純粋無垢の大声援を送っていた時代でした。
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次の日、首相官邸に招かれた具志堅は大平正芳首相に記録達成を報告。 翌年から制定された国民栄誉賞のタイミングがズレていたら…この賞の第一号は王貞治ではなかったかもしれません。



もし、ジュニアフライ級が新設されなければ…?

最軽量がフライ級のアナザーワールドで、具志堅が世界王者になることはなかったかもしれません。

しかし、現実世界ではジュニアフライ級が新設されました。沖縄返還(1972年)とモスクワ五輪ボイコット(1980年)という列島を揺るがした明暗までも具志堅には追い風となりました。

アナザーワールドなんて虚構の世界ではいざ知らず、私たちの住む現実世界で具志堅用高はファンと神に愛され、その押し寄せる幸運をしっかり掴み取る能力も備えた国民的英雄でした。

まだ娘が小さかった頃、バラエティ番組でイジられる具志堅を見て、意味もわからず笑い転げていました。表情や話しぶり、全身からにじみ出るオーラが優しい人、面白い人だと子供にも伝わったのでしょう。

アナザーワールドでも具志堅は世界王者になれたかどうかは、誰にもわかりません。ただ、その世界でも偉大なカンムリワシが誰からも愛されていたことは間違いありません。

リングの上ではあんなに獰猛なのに、そこを降りたら一人の人間として誰からも愛される。

具志堅用高は「最後のボクシングヒーロー」という枠では語れない存在です。