いい試合になって欲しい。

そう願っていたのは、そうはならないという確信の裏返しでした。 

フジテレビ系列のサンケイスポーツは「“黄金のバンタム”で世界最強を証明した。ファイティング原田、長谷川穂積、山中慎介など、伝説の王者たちが名を刻んだ中量級で、怪物が頂点に君臨した」と打ちましたが、お粗末すぎます。

日本をはじめアジアでもバンタムは軽量級。「黄金のバンタム」の使い方も、もうそろやめるべきです。誤解を招きすぎます。 

いい試合でした。ボクサーが経年劣化で喪失する5つの能力は、早い段階から順番に「反射」「タイミング」「動体視力(よく見る動体視力トレーニングの数値は関係ありません)」「スピード」。そして最後に「パワー」。

ドネアは間違いなく、今夜のリングに上がるずっと前に、とっくの昔に最初の4つを失っていました。最初の4つがまだ残っていたら、井上は12ラウンドのゴングを聞けなかったでしょう。

いいえ、最初の4つのうち何か一つでも残っていたら、井上は倒されていたでしょう。



この試合で井上は多くのものを学んだとは思いません。ボクシングは野球やサッカーとは違います。怖さを知ることは、多くの場合マイナスです。

井上はギリギリの戦いで生き残った、とも思えません。 

また、ドネアが強かったとも思いません。年齢を重ねたレジェンドが最後までパワーを失わないというのは、ボクシングの歴史が何度も教えてくれていますし、ドネアがそれを失っていないことも前戦で証明済でした。

私たちは今夜、さいたまスーパーアリーナで何を見たのか?何を学んだのか?…私は大阪のホテルで無理やり頼んだ大画面テレビでしたが…。 


①井上尚弥はモンスターではない。

試合開始ゴングですでに負けていました。「体があったまっていない序盤は慎重に」という以前の問題でした。スコアカードを付ける試合になると思い直しました。

ドネアの重さ、厚さ、打たれ強さが想像を遥かに超えるレベルであることに、鋭敏な嗅覚を持つ井上はすぐに気づいたでしょう。

「エマニュエル・ロドリゲスは気持ちが弱い」と一目で直感した井上は、自分を全く恐れないドネアに序盤で気圧されました。

今までの相手は井上をのパンチの交換を嫌ったり、ボクシングが途端に雑になりましたが、ドネアはパンチの交換に圧倒的な自信があることを1ラウンドで井上に伝えました。

2ラウンド、飲まれた井上の方が雑になります。ドネアの左右で何度か顔面を揺らされ、左フックでついに右目をカット。3ラウンドには鼻血も。

試合自体は一進一退、スピードで上回る井上がアドバンテージを持っているとも思われましたが、その余裕はありません。

井上がキャリア初めて重圧をかけられます。

戦前、ドネアは「井上の技術やスピードはリゴンドーよりずっと下、パワーはウォータースの方が遥かに上。私がリング上で井上について何か驚くことはない」と語っていましたが、その通りでした。

井上がモンスターに見えたのは、過去18戦の相手との相対比較ゆえでした。

鮮血に顔を染めてドネアのプレッシャーに下がり、大きくグラつくシーンも見せた井上は、今夜間違いなく魔法のガウンを脱がされました。



②井上の顎はガラス製でも鋼鉄製でもない。

ドネアは井上の印象を聞かれて真っ先に「井上は打たれ強かった。私のパンチにあれだけ耐えた相手はいない」と打たれ強さを挙げました。

今なおハードパンチャーとはいえ、反射もタイミングもスピードも喪失したドネアです。

ただ、井上の顎は想像以上に強かった。効かされたシーンは何度かありましたから、鋼鉄製とはいえないものの100点満点で60〜70点レベルのタフな顎を持っています。

ただし、顎には二種類あります。フリオ・セサール・チャベスのような永遠不滅の鋼鉄の顎と、ドン・カリーのように叩かれるたびに脆弱化する顎と。

いずれにしても、井上の顎はガラスではありませんが、鋼鉄でもありません。これからは、その顎をしっかり守らなければなりません。



③井上は、ドネアが跳ね返されたフェザーでは通用しない。

今夜の井上がドネアに上回っていたのはスピードだけでした。中盤から下肢を気にしていた原因はわかりませんが、試合前からの異常でなければ、長丁場に肉体が悲鳴を上げたからでしょう。

井上が強打者であることは間違いありませんが、それが際立って見えたのは間違いなく対戦相手の質が低く、思い切って重心を乗せて打てたからです。

長谷川穂積もネストール・ロチャのような相手にはとんどもない一撃をお見舞いできましたが、世界基準の相手や、より強靭なジュニアフェザーやフェザーの相手には体重を乗せたパンチは打てなくなりました。

リング誌のダグ・フィッシャーは「井上はファン・フランシスコ・エストラーダには勝てない」と見立てましたが、その根拠は「エストラーダはしっかり踏ん張ってパンチを打つには危険すぎるから」でした。

井上がドネア以外でバンタム級で戦ったのは、危篤状態のジェイミー・マクドネル、ファン・カルロス・パヤノ、エマニュエル・ロドリゲス。パヤノとロドリゲスはこの階級では強豪に数えて差し支えありませんが十分にテストされたかとなると、疑問です。

以前「疑問はない!」と断言してしまいましたが…。

そして、バンタムに疑問符がついた井上は、ガウンを脱いだ上に122ポンドではさらに厳しい戦いを強いられるでしょう。ましてやフェザーとなると…。



④それでも井上は今のバンタム級なら最強。

現在のバンタム級シーンは井上がIBFとWBAを統一。WBOがゾラニ・テテ、WBCが拓真を圧倒したノルディン・オーバアリ。

憎きルイス・ネリや、ジュニアバンタムの強豪など手強い相手が控えていますが、井上が推定階級最強であるのは間違いありません。

もちろん、今までのような圧倒的有利の予想もオッズも立たなくなりますし、ジュニアバンタムからエストラーダが上がってきたら不利予想も立つでしょう。


 
⑤ドネアは井上を追い詰めたが、だからといって他の強豪相手に有利とは見られない。

11ラウンドのダウンがなければ今夜の試合はスプリットデジション。あのダウンがなければ、最後の2ラウンドの展開が変わっていたとしたら2−1でドネアの目もありました。

ドネアは大健闘しました。公言通り「簡単には越えられない壁」になって見せました。

しかし、これからドネアがテテやオーバアリと戦うとなると普通に大きく不利の予想やオッズが立てられるでしょう。

今夜の試合でドネアの評価は変わりません。PFP4位を追い詰めたからPFP9位とか10位にはなりません。

変質したのは井上の評価です。今までまともに重圧をかけられたことがありませんでしたが、まっすぐに下がる癖が明らかになりました。ロドリゲス戦の一直線の後退は、余裕や誘いもあったかもしれませんが、今夜の正直なバックステップはおそらく修正できない欠点です。

そして、長らく指摘されてきたクロスレンジでの戦い方は厳しい、厳しいです。これからはインサイドでの打ち合いは回避していくスタイルを身につけるしかありません。



⑥井上にとって次の試合は、ここまでのキャリアで最も重要になる。慎重に選ばなければならない。

井上の次戦がどうなるのか。

今夜、私たちが見た井上は、全盛期から8年もたったボクサーのプレッシャーにまっすぐ下がって、スピード勝負で逃げ切ったサバイバーでした。

絶対的にいえることは、次の試合は今まで通りのパワーのないソフトな相手に戻るべきです。少なくとも1〜2試合はパワーヒッター厳禁です。

技術的にはネリは問題ないでしょうが、あの暴風雨に裸の王様状態の今の井上は危険極まりありません。今月末にジョン・リエル・カシメロを迎え撃つテテもありえません。


⑦ノニト・ドネアはもちろん、井上尚弥もライオンハートを持っていた!

いい試合でした。最後に抱き合ったとき、井上の口が「ありがとう」と動いたようにも見えました。

11ラウンド、井上のハンマーのような左で肋骨を叩かれたドネアが悶絶してひざまづきました。立てない、立ってこないと思いました。

ドネアがどれほど偉大なボクサーかを、あらためて、今更ながら思い知らされました。しかも、傷ついたラストラウンド、最後の1秒まで雄叫びをあげて、逆転の拳を振るい続けた姿の神々しさよ!

自分を恐れずに立ち向かってくる相手と初めて対峙した井上も立派に戦い抜きました。

今夜、井上が失ったものの大きさは計り知れません。

しかし、井上は逆境でも諦めないハートを見せてくれました。

今夜の試合が契機となって、井上がフェザーから上の眩い世界のスターダムではなく、辰吉丈一郎のような浪花節の風に帆を上げることになるのかもしれません。

二人の獅子が互いのプライドを拳に込めて殴り合った12ラウンド。

いい試合でした。BWAAやリング誌、 ESPNの年間最高試合に、八重樫東以来、史上二人目の日本人として選ばれても不思議じゃない激闘でした。